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九州地方所在の旧陸海軍航空基地

(暫定ページ)



九州所在旧陸海軍航空基地
黄色 は旧海軍の陸上機、緑色 は水上機、赤色 は水陸両用、白色 は旧陸軍の飛行場を示します。
( 元画像 : Google Earth より )
和白 第一福岡 第二福岡 博多 西戸崎 志賀島 富江 富江 元岡 今宿 玄海 築城 宇佐 大分 戸次 家野 佐伯 佐世保 大村 諫早 天草 富高 人吉 出水 宮崎 都城 第二国分 第一国分 岩川 志布志 崎田 鹿児島 桜島 鹿屋 笠ノ原 串良 指宿 芦屋 津屋崎 曽根 福岡 大刀洗北 大刀洗 大刀洗東 目田原 筑後 菊池 宮地 黒石原 高瀬 熊本 隈之庄 八代 唐瀬原 新田原 木脇 都城北 都城西 万世 知覧 上別府

( ↑ 航空基地名にカーソルを当てると関連する図・写真のデータ・ウィンドがポップアップします )



九州地方所在の旧陸海軍の航空基地は次のとおりです。



 旧海軍


旧海軍の航空基地は次の37個所とされています。 詳細については既に公開済みの16基地の他は順次当該頁を作成していくことにしています。


  和 白
  第一福岡
  第二福岡
  西戸崎
  博 多
  志賀島
  今 宿
  元 岡
  玄 海
  築 城 昭和17年10月に福岡県築上郡 (現在の行橋市大字松原) の地に建設され、築城航空隊 (初代) が置かれましたが、この初代は昭和19年2月に第五五三航空隊と改称され美幌航空基地に移転したことにより、同年3月に改めて築城航空隊 (二代) が置かれました。 終戦間際に練習航空隊の指定が解除されて実戦部隊となり、また本基地も特攻隊の出撃基地として使用されています。 終戦後は米軍に接収されましたが、昭和30年には航空自衛隊築城派遣隊が置かれ、昭和32年の返還により航空自衛隊築城基地となっています。 現在までにジェット機の運用のために元の滑走路の脇に2400mの新滑走路が建設されるなど近代化が進められ、、また昭和63年以降は在日米軍との共同使用となっています。
  宇 佐 第三次海軍軍備補充計画による14個航空隊増設の一つとして、大分県宇佐郡柳ケ浦村(現在の宇佐市柳ヶ浦)に建設され、昭和14年に呉鎮守府の宇佐航空隊が置かれたことを嚆矢とし、同隊は練習航空隊に指定され艦爆・艦攻の操縦及び偵察の実用機教程を担当したことにより、太平洋戦争中もほとんどを訓練基地として使用されました。 昭和20年3月に同航空隊が解隊となった後は、西海航空隊の指揮下で特攻隊の出撃基地となっています。 終戦後は基地跡は民間の農耕地となり、衛星写真で見る限りでは、現在でもほとんど再開発はされずに広々とした田園風景が広がっています。 
  大 分 昭和13年に呉鎮守府所属の大分航空隊の原駐基地として大分郡東大分村(現大分市)に置かれたことを嚆矢とします。 終戦時には第五航空艦隊の司令部や西海航空隊が移駐していました。 戦後は米軍に接収され、昭和31年に解除・返還となり、翌32年に第二種空港の 「大分空港」 として整備し直されましたが、昭和46年には国東半島に新たに整備された 「新大分空港」 へ移転したことにより閉鎖となりました。 その後周囲の埋め立てなどと併せ工業地帯となりましたが、現在では再開発により公共施設地区や住宅地区となっており、衛星写真で見る限りでは旧海軍の飛行場跡はもちろん、大分空港跡についても窺わせるものは何も残っていません。
  佐 伯 昭和9年に呉鎮守府の佐伯航空隊が置かれたことを嚆矢とし、陸上飛行場及び水上機基地を併せ持つ実用機の複合航空基地としての位置付けでした。 終戦後は、陸上飛行場地区はパルプ工場などの工業地帯、掩体地区は農耕地、そして水上機基地は民間の造船所となり、本部庁舎地区のみは海上自衛隊の佐伯基地分遣隊として現在もしようされています。 ただし、現在では再開発が進んでおり、衛星写真を見る限りでは、この一帯が陸上飛行場及び水上機の複合航空基地であったことを偲ばせるものはほとんど残されていません。
  佐世保 大正9年に佐世保鎮守府の佐世保航空隊が置かれたことを嚆矢としますが、基地は水偵用実用機基地としての位置付けであり、滑走路は設けられたものの連絡機用程度のもので本格的な陸上機の運用には至りませんでした。 戦後は民間造船所の所有地となりましたが、大型ドックの建設計画などは実現することなく単なる資材置き場として放置状態でしたが、その後土地交換により国有地となり、一次米海軍のLCAC駐機場兼整備場となっていましたが、これは対岸に新設された基地に移転し、現在では基地跡は海上自衛隊の佐世保地方総監部の管轄地となって、様々な施設が使用しています。
  大 村
  諫 早 昭和17年4月に長崎地方航空機乗員養成所として開設されたこと嚆矢とし、翌18年12月に海軍に徴用されて19年3月には大村航空隊諫早分遣隊が置かれましたが、20年3月には同分遣隊は諫早航空隊となりました。 戦後は民間に払い下げられ、衛星写真で見る限りでは、一部が宅地となっているものの、現在でも広々とした水田地帯が広がっており、用水路の区画割など以外に航空基地跡を窺わせるものはほとんど残されていません。
  天 草 昭和19年3月に熊本県天草郡五和町伊佐津(現在の天草市伊佐津)の地に水上機基地として建設され、博多海軍航空隊天草分遣隊が置かれたことを嚆矢とします。 同分遣隊は翌20年3月に天草航空隊となりましたが、終戦までに基地機能が完成状態にあったかどうかは不詳です。 終戦後は、引揚者住宅、その後中学校となりましたが、同校は統廃合により既に廃校となっています。 水上機用のエプロン地区は護岸工事のため一部現存しているとされていますが詳細は不詳で、衛星写真で見る限りではそ例外についても基地跡を窺わせるものはほとんど残されていません。
  人 吉
  出 水
  富 高 昭和3年及び4年の訓令に基づき宮崎県臼杵郡富高町(現在の日向市財光寺)に呉鎮守府所管の艦載機の訓練用飛行場として建設されましたが、常駐する航空隊は置かれませんでした。 昭和19年に築城航空隊(二代)の新編に伴い同隊の富高分遣隊が本基地に置かれましたが、同分遣隊は昭和20年に岩国航空隊となって岩国基地に移駐しております。 終戦後は基地跡は民間の農耕地となりましたが、現在では再開発によりほとんどが住宅地等にとなっており、衛星写真を見る限りでは飛行場跡を窺わせるものは何も残されていません。
  宮 崎 当初は戦前に実用機基地として計画されたものの、用地買収と建設開始は開戦後になってからで、昭和18年12月に練習航空隊たる宮崎海軍航空隊として開隊され、陸攻の実用機教程を担当する航空基地となりました。 しかしながら、昭和19年8月には同航空隊は松島海軍航空隊となって松島基地に移転したことにより、その後は南方方面への中継基地及び特攻隊の出撃基地として使用されました。 終戦後は連合軍に接収されましたが、昭和29年には返還となり航空大学校が設置され、また民間航空の定期路線が開設されました。 その後民間空港として拡張が行われ、現在では宮崎ブーゲンビリア空港と名付けられて宮崎の表玄関となっています。
  第一国分
  第二国分
  都 城
  鹿児島
  桜 島
  岩 川
  志布志
  串 良
  笠之原
  鹿 屋
  崎 田
  指 宿
  富 江
  富 江



 旧陸軍


旧陸軍の航空基地は次の24個所とされています。


  曽 根

( 平成8年版 『航空路図誌』 より )
  芦 屋

( 平成8年版 『航空路図誌』 より )
  津屋崎
  福 岡

( 平成8年版 『航空路図誌』 より )
  大刀洗北
  大刀洗東
  大刀洗
  目田原

( 平成8年版 『航空路図誌』 より )
  筑 後
  菊 池
  高 瀬
  黒石原
  宮 地
  熊 本
  隈之庄
  八 代
  唐瀬原
  新田原

( 平成8年版 『航空路図誌』 より )
  木 脇
  都城北
  都城西
  万 世
  知 覧
  上別府


この他に、大分 (大分市)、久留米 (久留米市) 、熊本帯山 (熊本市)、熊本渡鹿 (熊本市)、鹿児島伊敷 (鹿児島市) などの練兵場が不時着陸場として使用されましたが、これらについては全て省略します。


また、大戦末期に秘匿飛行場と称する急造のものが各地に計画されましたが、実際に工事が行われたのかや終戦までに完成したのかなどさえ不明なものがほとんどですので、日米双方の史料に基づきキチント確認出来るところ以外は全て省略しております。







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最終更新 : 29/Aug/2021