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佐伯航空基地 (付:臼杵(六九四)航空基地 |
佐伯航空基地は、昭和9年に呉鎮守府所属の佐伯航空隊が置かれたことに始まります。 陸上機及び水偵による瀬戸内海及び豊後水道〜四国沖海面の守りの実用機基地としての位置付けでした。 その状況の概略は次のとおりです。
( なお、現在では 「佐伯」 は 「さいき」 と呼ばれ、これが公式になっていますが、元々は 「さえき」 で、旧海軍での正式名称も 「さえき」 です。 )
昭和 9年 2月15日 同 昭和18年12月 1日 昭和20年 7月20日 |
佐伯航空隊開隊 呉鎮守府所属となる 呉防備戦隊所属となる 第八特攻戦隊に編入される |
昭和12年月7月に本基地を原駐とする特設航空隊の第十二航空隊が編成されました。 その状況については次の通りです。
昭和12年 7月11日 | 第十二航空隊開隊 (艦戦、艦爆、艦攻) |
同 8月 7日 | 周水子航空基地(大連)に進出 |
同 9月 5日 | 第三艦隊に編入され、上海に進出 |
以後、中支方面作戦に従事 南京、漢口に進出 | |
昭和15年11月15日 | 支那方面艦隊直属となる |
昭和16年 9月15日 | 解隊 |
開戦後には、第九三一航空隊 及び第九三三航空隊 が本基地を原駐として開隊しました。 同隊の状況の概略は次のとおりです。
第九三一航空隊 | 昭和19年 2月 1日 | 開隊、佐伯航空基地で編成 (艦攻) | |
同 | 海上護衛総隊所属となる | ||
同 | 硫黄島、石垣島、沖縄 (小禄) 等に分派 | ||
昭和20年 1月 1日 | 第一護衛艦隊 (海上護衛隊) に編入 | ||
昭和20年 4月20日 | 第五航空艦隊所属となる | ||
昭和20年 8月 3日 | 第三十二航空戦隊 (第五航空艦隊) に編入 |
第九三三航空隊 | 昭和19年 9月 1日 | 開隊、佐伯航空基地で編成 (水偵) | |
同 | 第三十一航空戦隊に編入 | ||
昭和19年12月 8日 | カナカオに進出 | ||
昭和20年 1月 1日 | 第九三六航空隊に統合される |
また、特設航空隊である第331航空隊 (艦戦)が大分基地を原駐として本基地で編成されました。 同隊の状況の概略は次のとおりです。
第三三一航空隊 | 昭和18年 7月 1日 | 開隊、佐伯航空基地で編成 (艦戦、艦攻) | |
同 | 南西方面艦隊所属となる | ||
昭和18年 8月27日 | シンガポールに進出、以後南西方面作戦に従事 | ||
昭和20年 5月15日 | 解隊 |
なお、終戦時には佐伯航空隊の零式水上偵察機一一型 x 11機、九四式水上偵察機一二型 x 2機、九三式陸上中間練習機 x 33機、九〇式陸上機上作業練習機 x 1機があったとされますが、これがここにあった全てなのか、その他の部隊の残存機があったのかなどについては不明です。
終戦後は、飛行場地区は民間に払い下げられて (株) 興人佐伯工場のパルプ工場などの工場地区となり、掩体地区はほとんどが農地となりました。
本部地区及び水上機隊地区は 「海上自衛隊佐伯基地分遣隊」 となり、元の航空隊本部庁舎はそのまま佐基分の庁舎として使用されました。 また水上機隊地区のスベリは佐基分の舟艇用として利用されていましたが、その後同地区は民間に払い下げられ、現在は佐伯重工業 (株) 佐伯造船所となってます。
元航空隊本部庁舎は老朽化のため平成23年に解体され、現在ではその奥に似た形状で規模の小さい海自佐伯基地分遣隊庁舎が建てられています。 また、佐伯造船所内にあった水上機用のスベリも残されてないようです。
また、(株) 興人は平成24年にパルプ産業から撤退し業態を改めたこともあり、飛行場地区は掩体地区と共に再開発が進んでおり、このため上記と合わせ現在ではこの一帯がかつて陸上機及び水上機の複合航空基地であったことを偲ばせるものはほとんど残されていません。
1945年の米軍艦載機による空襲下の佐伯基地 | ||
同 上 | ||
同 上 | ||
同 上 | ||
同 上 | 同 左 | |
同上 (飛行場地区) | 同 左 | |
同上 (水上機隊地区) | 同左。 右下側は佐伯防備隊地区 | |
開隊時頃と推定される本部庁舎 (撮影年不詳) |
臼杵 (六九四) 基地は、終戦間際に作られた本土決戦用の秘匿基地、いわゆる “牧場” の一つですが、佐伯基地の陸上機の分散・隠蔽用としての性格が強いためにここで取り上げます。
この基地は、佐伯基地から西北約20km内陸部の臼杵川沿い、大分県北海部郡臼杵町家野 (現在の臼杵市家野) の防風林に囲まれた高台上の平坦地に、昭和20年7月に戸次 (九六三) 基地から第五一二設営隊の主力が移動して建設が行われ、同月内には早くも概成したとされており、終戦時には 600m x 30m の砂利敷き転圧した滑走路1本 (長さ 600m x 幅 30m) と地下式指揮所などが整備されたとされていますが、詳細については不詳です。
余談ですが、当該地の臼杵川を挟んだ反対側には有名な臼杵の石仏群があることで知られているところです。
( 画像はネットからお借りしました m(_ _)m )
戦後はそのまま元の地権者に開放されてほとんどが農地となり、東北東側の1画には県立臼杵商業高校が移設されましたが、現在ではこの高校は統廃合によって閉校となり、その跡地は災害支援センターになっているようです。
(写真収集中) | ||
最終更新 : 29/Aug/2021