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富高航空基地 |
富高航空基地は、昭和3年の官房機密第612号及び昭和4年の官房機密第203号の両訓令に基づき、飛行場建設のために宮崎県東臼杵郡富高町 (現在の日向市財光寺) を買収し造成が開始されましたが、常駐の航空隊設置の計画は当初から無く、呉鎮守府所属の訓練用の飛行場として建設されました。
そして昭和12年に更に追加の土地を買収して拡張が行われ、昭和15年から空母艦載機の訓練用基地として使用されたとされています。 特に、開戦時の真珠湾攻撃に備えての訓練が行われた基地の一つとなったことは良く知られています。
昭和17年10月30日に内令1989号 「航空基地管理に関する件」 が定められ、本基地については築城航空隊(初代)が管理部隊に指定されて、昭和18年1月7日の内令11号の改訂でもこれが継承されていますが、この昭和17年の内令制定までの間の本基地の管理部隊は不詳です。 恐らく所在地を担当範囲とする呉鎮守府がそのままこれに当たっていたと考えられます。
そして、築城航空隊(初代)が第553航空隊と改称されて美幌航空基地に移駐したことに伴い、昭和19年3月9日の内令408号により一時的に宮崎航空隊が本基地の管理部隊として指定されましたが、昭和19年3月15日に築城航空隊(二代)の開隊と同時に同航空隊富高分遣隊が本基地に置かれ、これに伴い本基地の管理部隊も再度築城航空隊となりました。
次いで、昭和20年3月1日に同分遣隊が廃止さて岩国航空隊となり岩国航空基地に移駐しましたので、これに伴い内令187号により同基地の管理部隊は第三航空艦隊に指定し直されました。
昭和19年11月1日に同分遣隊が富高航空隊となり、その開隊直後とされる庁舎前に於ける司令部の記念写真とされるものが残されていますが、同分遣隊の解隊は昭和20年3月1日であり、富高航空隊開隊の内令なども確認できませんし、内令員による定員表の制定もありませんので、その事実関係は不詳です。
その後、沖縄方面の米海軍艦艇に対する特攻隊が本基地に進出し、ここから順次出撃して行ったとされています。
終戦時には、戦闘機 x 38機、艦上爆撃機 x 2機、双発陸上攻撃機 x 1機、中間練習機 x 32機、作業練習機 x 1機、及び陸軍戦闘機 x 3機 (何れも機種不詳) が本基地に所在したとされますが、これらの元の所属は不詳であり、またこれら全ては終戦後の台風により被害を受けて破損したとされています。
終戦後は基地の施設等はほとんど撤去されて、一帯は農耕地として払い下げられましたが、現在では再開発によりほとんどが住宅地等になっています。
なお、現在の協和病院の駐車場に元滑走路の一部が残されているとされていますが、これは誤りで、元の格納庫前エプロンの舗装の跡です。
1945年米軍撮影の偵察写真より | 同 左 | |
同 上 | 1945年米軍の爆撃効果判定写真より |
最終更新 : 22/Aug/2021