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大分航空基地 (付:戸次(六九三)航空基地)



大分航空基地は、昭和13年12月に呉鎮守府所属の大分航空隊が置かれたことに始まります。 その大分空の状況の概略は次のとおりです。

昭和13年12月15日 大分航空隊開隊 (艦戦、艦攻)
    同 呉鎮守府所属
昭和14年12月 1日 第十二連合航空隊に編入
昭和15年11月15日 練習航空隊に指定、艦戦及び艦攻の実用機教程を担当
昭和19年 3月15日 解隊、飛行隊を筑波航空隊に移す

また、昭和19年6月に横須賀航空隊の大分分遣隊が置かれました。

昭和19年 6月15日 横須賀航空隊大分分遣隊を置く
昭和20年 4月10日 同上廃止、西海航空隊に編入

特設航空隊では、次の航空隊が本基地を原駐基地としましたが、一度も本基地に戻ることはありませんでした。

第三三一航空隊
第七三二航空隊
第一四一航空隊
昭和18年 7月 1日
昭和18年10月 1日
昭和19年 3月15日
  開隊、佐伯基地にて編成 (艦戦)
開隊、豊橋基地にて編成 (陸攻)
開隊、三重基地にて編成 (陸偵、夜戦)

また、乙航空隊である西海航空隊が第五航空艦隊の隷下に昭和20年3月20日本基地に開隊し、その後8月3日には第五航空艦隊も司令部を鹿屋基地から本基地に移しました。

なお、終戦の日の昭和20年8月15日、本基地から第五航空艦隊司令長官であった宇垣纏海軍中将が彗星11機とともに沖縄に向かったことはよく知られているところです。 (玉音放送があった後であり、なおかつ正規の指揮命令に沿ったものではありませんので、敢えて 「特攻」 とは書きません。) 

終戦後は米軍に接収されましたが、昭和31年に返還、翌32年に敷地規模を大幅に縮小して大分空港となりました。 昭和46年には国東半島の現在の地に新たに 「新大分空港」 を整備してそちらに移転した後は、空港を閉鎖して工場地帯に、次いで現在では更に再開発により公共施設及び住宅地区となっています。

なお、当時は東西両側を川に挟まれ北側は海に面した基地でしたが、北側と東側が大規模に埋め立てられて陸中の市街地のただ中となっており、現在では当時の面影は全くありません。



  
昭和12年の用地購入時の位置図。    現在の衛星写真から、周辺航空基地との関係。 黄色文字は固定翼、緑色は水上機、赤字は両用です。
( 元画像 : Google Earth より ) 
    
昭和12年の用地購入時の位置図。      
   
海自の古い部内史料にある基地のラフ・レイアウト。 (上が北方向)    
   
1945年の米軍史料より基地レイアウト図    
 
終戦時の旧海軍史料より基地レイアウト図。   現在の状況地図。 戦後の大分空港時代の滑走路及びエプロン跡が運動公園となっています。
    (周辺広域地図表示)
 
1945年版の米軍地図より。 基地の南側が第十二海軍航空廠になります。   平成20年の国土地理院2万5千分の1地図から当該部分。
 
1945年の米軍史料より。   現在の衛星写真による当該地区の状況。 全くの市街地となっており、北及び東側の大規模埋め立てに伴い、水路の形状も変わってしまっています。
( Google Earth より )
 
1948年の米軍航空写真。 まだほぼ終戦直後の状態を保っています。   国土地理院の航空写真より大分空港として使用中の1966年の状況。 滑走路は当時より北に新たに造られています。 また東側は既に大規模な埋め立てが行われています。
 
左端が少し切れているのが残念ですが、同じく1948年の米軍航空写真から飛行場地区の拡大。 格納庫地区やエプロンなどが明瞭に判ります。  



   
昭和13年12月15日の開隊記念行事における本部庁舎 同左、正門付近
 本部庁舎前での第七〇期飛行学生終業記念
エプロン地区の状況 (撮影時期不詳)
1945年3月18日の米艦載機による空襲下の大分基地 (北東から南西方向を望む)
同3月19日の米艦載機による空襲下の大分基地 (北側から南方向を望む)






 

(付) 戸次(六九三)航空基地



六九三 (戸次) 基地は、終戦間際に作られた本土決戦用の秘匿基地、いわゆる “牧場” の一つですが、大分基地の分散・隠蔽用としての性格が強いためにここで取り上げます。

この基地は、大分基地から南南東約10km内陸部の大野川沿い、大分県大分郡戸次村 (現在の大分市中戸次) に作られ、終戦時には 1600m x 80m の砂利敷きの滑走路1本と、木造の格納庫5棟、倉庫などが出来ていたとされますが、詳細については不明です。

終戦直前に第一七一航空隊 (翔部隊) の一部が鹿屋から移駐し、実際に使用したとされています。 また、終戦時には彩雲一一型と紫電一一型乙が各4機あり、また連合軍への引渡し目録によると、基地としてはこの彩雲及び紫電用の装備品・予備品などが揃えられていたようです。

戦後はそのまま元の地権者などに払い下げられ、ほとんどが農地となりました。 現在では敷地の南側を国道10号線が通り、その周辺は宅地となっていますが、残りは依然として農耕地が広がっています。



 
1952年版の米軍地図から、大分基地との位置関係。   同じく、衛星写真から大分基地との位置関係。
( 元画像 : Google Earth より )
 
終戦時の旧海軍史料から基地の位置図。 倉庫が分散して配置されています。   現在の状況地図。
( 元画像 : Google Map より )
 
1945年版の米軍地図より。   国土地理院発行の2万5千分の1地図より。 滑走路も含め航空基地の跡は何もありません。
   
終戦時の旧海軍史料から基地のレイアウト。 @ が滑走路、A が木造格納庫。    
 
1945年5月撮影とされる米軍写真より。 完璧に解析されています。   衛星写真から。 当時を偲ぶものは全く見受けられません。
( Google Earth より )
   
1947年の米軍航空写真より。 赤枠の位置に元の滑走路跡がうっすらと残っています。    



(写真収集中)    
     






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 最終更新 : 29/Aug/2021