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宇佐航空基地 |
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(付:中津(六九一)航空基地) |
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(付:草地(六九二)航空基地) |
宇佐航空基地は、,第三次海軍軍備補充計画 (通称、B計画) による14個航空隊の増設の一つとして、大分県宇佐郡柳ヶ浦村 (現在の宇佐市柳ヶ浦) の地に建設され、呉鎮守府所属の宇佐航空隊が置かれたことに始まります。
その宇佐空の状況の概略は次のとおりです。
昭和14年10月 1日 | 宇佐航空隊開隊 (艦爆、艦攻)、呉鎮守府直属 |
同 12月 1日 | 呉鎮守府隷下に第十二連合航空隊が編成され、大分空と共に編入 |
昭和15年11月15日 | 練習航空隊に指定され 艦爆・艦攻の操縦及び偵察の実用機教程担当 |
昭和20年 3月 1日 | 練習連合航空総隊を解体し新たに第十航空艦隊が連合艦隊隷下に編成され、第十二連合航空隊は第十航空艦隊に編入 |
同 | 宇佐空は練習航空隊指定を除かれ、作戦部隊となる |
同 5月 5日 | 解隊 |
また、昭和20年4月15日に西海航空隊の宇佐派遣隊 (元横須賀航空隊大分分遣隊) が置かれています。
そして、昭和20年5月5日に宇佐空が解隊となったことにより、第五航空艦隊が本基地の管理部隊に指定され、基地所在の航空部隊は乙航空隊たる西海航空隊の指揮下となりました。
なお、戦争終盤では、特攻隊の出撃基地として使用され、また解隊前の宇佐空からも八幡護皇隊が編成されて3度にわたり出撃しております。
終戦後は連合軍に接収されましたが、連合軍によって使用されること無く滑走路などは破壊され、そのまま農耕地として払い下げられました。 掩体壕跡や建物跡などが僅かに残る他は、広々とした農耕地が広がり、旧管理地区は住宅地などとなっています。 また、滑走路跡の一部 (滑走路跡のほぼ中央部) は一直線に延びる県道となっています。
土地柄からも再開発はされなかったこともあり、現在では掩体壕や通信室などの遺構は戦争遺跡として観光誘致に活用されていますが、広々とした田園風景が拡がっています。
1945年の空襲下の基地全景 | ||
同 上 | 同 左 | |
同 上 | ||
少々写りが悪いですが雪景色の本部庁舎 (撮影時期不詳) | ||
格納庫前のエプロンに並ぶ九七式艦攻 (撮影時期不詳) | ||
指揮所前にて (撮影時期不詳) | ||
正門門柱 (撮影時期不詳) | 本部庁舎前にて (撮影時期不詳) |
中津(六九一) 基地は、終戦間際に作られた本土決戦用の秘匿基地、いわゆる “牧場” の一つですが、宇佐基地の分散・隠蔽用としての性格が強いためにここで取り上げます。
この基地は、宇佐基地から西北西約16kmの山国川沿い、大分県中津市鶴居村高瀬 (現在の中津市高瀬) の地に昭和20年8月に建設が行われ、終戦時には 600m x 40m の砂利敷きを転圧した滑走路1本と誘導路などが整備されたとされていますが、結局航空基地としては未完のままで、詳細については不詳です。
滑走路の正確な位置は不詳ですが、旧海軍の位置図、1947年撮影の米軍写真、国土地理院の電子地図、それと対岸に残る八坂神社との位置関係から推定したものです。
戦後はそのまま元の地権者に開放されてほとんどが農地となり、現在では一部は工場となっているようです。
(写真収集中) | ||
草地 (六九二) 基地は、終戦間際に作られた本土決戦用の秘匿基地、いわゆる “牧場” の一つですが、宇佐基地の分散・隠蔽用としての性格が強いためにここで取り上げます。
この基地は、宇佐基地から東約10kmの、大分県郡高田町美和 (現在の豊後高田市美和) の草地村と呼ばれた雷原台地に昭和20年8月に建設が行われ、終戦時には 600m x 40m の砂利敷き転圧の滑走路1本などが整備されたとされていますが、結局航空基地としては未完のままで、詳細については不詳です。
戦後はそのまま元の地権者に開放されほとんどが農地となりましたが、現在では工場ができ宅地化なども進んでおり、道路や区画割りなども含めて航空基地跡を窺わせるものは見当たりません。
(写真収集中) | ||
最終更新 : 12/Sep/2021