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宮崎航空基地 |
宮崎航空基地は、開戦前に対米戦を見越して航空基地増設が計画された中の一つで、当初は実用機基地として予定されました。 しかしながら実際に用地買収と建設が始まったのは開戦後になってからで、昭和18年12月1日に中攻実用機教程の宮崎航空隊の開隊に併せて開設されました。 当時現地ではその地名から通称 赤江飛行場 とも呼ばれていたようです。
昭和18年12月 1日 |
宮崎航空隊開隊、第12連合航空隊に編入 |
同 | 練習航空隊に指定され、陸攻実用機教程を担当 |
昭和19年 8月 1日 | 宮崎航空隊が松島航空基地に移り松島航空隊となる |
昭和19年11月24日 | 第七六二航空隊の一部 (攻撃第七〇三飛行隊) が比島より移転 (聯合艦隊所属) |
また、昭和19年10月10日に本基地を原駐基地として第七六三航空隊が出水において編成され、その後クラークへ進出しましたが、一度も本基地に戻ることはありませんでした。
昭和19年8月に宮崎航空隊が松島に移転して以降、本基地は南方への中継基地などとして使用されるとともに特攻隊の出撃基地となりましたが、このためもあって基地の管理部隊は昭和19年12月1日に第三航空艦隊となりました。
終戦後には連合軍に接収されましたが、昭和29年には返還され航空大学校が設置されると共に民間航空の定期路線が開設されています。 その後、民間空港として拡張が行われ、A滑走路は順次2500mまで延長されると共に、昭和55年にはB滑走路が閉鎖されました。
平成26年には愛称が 宮崎ブーゲンビリア空港 と名付けられて現在では宮崎の表玄関となっています。
昭和20年の米軍空襲後の攻撃成果評価写真。 | 昭和20年の米軍空襲下の管理地区。 | |
エプロンにおける九六式陸攻 (撮影時期不詳) | ||
同上 (撮影時期不詳) | エプロンに並ぶ九六式陸攻 (同左) |
最終更新 : 12/Sep/2021