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南西諸島所在の旧陸海軍航空基地



南西諸島所在旧陸海軍航空基地
黄色 は旧海軍の陸上機、緑色 は水上機基地、白色 は旧陸軍の飛行場を示します。
( 元画像 : Google Earth より )
種子島 喜界島 古仁屋 南大東 佐敷 小禄 宮古 第一石垣 第二石垣 徳之島 宮古中 宮古西 石垣東 伊江島 沖縄北 沖縄中 沖縄南

( ↑ 航空基地名にカーソルを当てると関連する図・写真のデータ・ウィンドがポップアップします )


(注) : 「沖縄北」 は旧海軍基地に準じて該当ページ ↓ を作成しておりますので、そちらをご参照下さい。



南西諸島所在の旧陸海軍の航空基地は次のとおりです。



 旧海軍


旧海軍の航空基地は次の9個所とされています。


  種子島 開戦後の昭和17年8月に不時着陸場として建設が始まったもので、終戦までの間に実用基地としての機能強化が行われたようですが、常駐の航空隊などもなく、その運用状況については不詳です。 戦後はそのまま放棄されて農耕地となりましたが、昭和49年に元敷地の一角に宇宙開発事業団 (現在のJAXA) の増田宇宙通信所が設置されて現在に至っています。
  喜界島 昭和8年に不時着陸場として建設され、大戦中は南西諸島ルートの中継・不時着陸場として活用されたようですが、飛行場としての拡張、設備などの詳細は不詳です。 戦後はしばらく国有地のまま放置状態にあったようですが、昭和34年になって喜界町管理の飛行場としての使用が始まり、昭和46年には鹿児島県を管理者とする第三種空港たる 喜界空港 となって現在に至っています。
  古仁屋 戦前に南西諸島ルートにおける水上機の中継・不時着陸場として置かれたもので、大戦中も常駐の航空隊などはなく、その運用実績については不詳です。 戦後は国有地のまま放置されたようですが、昭和41年に元のエプロン・滑り地区に東京大学医科学研究所の奄美病害動物研究施設が置かれて現在に至っています。
  南大東 戦前に南西諸島ルートにおける不時着陸場として建設されたことを嚆矢とするものですが、大戦中に南方方面や沖縄方面での航空作戦の活発化に伴い機能強化されたとされますが、航空基地としての位置付けも含めてその実際は不詳です。 戦後は、昭和48年に 南大東空港 となりましたが、平成9年には新南大東空港が完成して移転し閉鎖され、跡地は再開発の対象となっているようです。
  小 禄 昭和8年に佐世保鎮守府所管の不時着陸場として設置されましたが、翌年には条件付で民間使用が許可となり、更に10年には逓信省が維持管理する 那覇飛行場 となりました。 日中戦争以降旧陸海軍の使用が増加したため基地の拡張が行われ、昭和18年には再度旧海軍の所管となり、元の 小禄航空基地 に改称されると共に基地の本格的な拡張が行われました。 また、南西諸島方面航空隊の本部や偵察第三飛行隊などが置かれましたが、同年10月の空襲以降は基地機能を喪失したまま昭和20年4月の米軍侵攻により占領されています。 戦後は米空軍基地となって元の飛行場の跡を留めないほどに大改修が行われ、昭和37年からは民間機が運航も始まり、昭和47年の沖縄返還に伴い第二種空港の 那覇空港 となりましたが、管理権が完全に日本に戻ったのは昭和57年になってからでした。 現在では三自衛隊、民間、海上保安庁、県警などが共存する南西諸島を代表する基幹的な国際空港となっており、更に沖合を埋め立てての滑走路の増設工事が行われつつあります。
  佐 敷 戦前から沖縄の佐敷に置かれた水上機基地で、その所在地名から 佐敷基地 あるいは 馬天基地 として旧海軍部内でも広く知られており、また大戦中も継続して使われておりますが、その正確な所在地や施設などは旧海軍史料にもなく、全く不明です。 名称から、おそらく現在の馬天漁港から馬天自動車教習所にかけての地にあったと推測されますが、大戦末期から終戦直後にかけての米軍写真でも判別できません。
  宮 古 昭和18年6月になって南西諸島方面の防備強化のために建設された実用機基地ですが、常駐の航空隊などは置かれず、また空襲及び艦砲射撃を受けたこともあって、実質としてほとんど機能しなかったようです。 戦後は米軍管理の空港となっている間に滑走路が元の3本から1本に改修されており、昭和30年からは民間のチャーター便の運航が始まり、昭和48年には沖縄県を管理者とする第三種空港の 宮古飛行場 となり現在に至っています。
  石 垣 昭和8年の不時着陸場を嚆矢とする 石垣 (第一石垣、石垣北) と、昭和18年に建設された 第二石垣 (石垣南) の2つの航空基地が置かれました。 戦後は、第二石垣の跡が 石垣空港 となりましたが、平成25年には新石垣空港が完成して移転し閉鎖されましたので、跡地は現在では再開発が行われています。


なお、これ以外で大戦末期に急造計画が立てられたものの、建造に到らなかったもの、あるいは建造途中で放棄されたもの、終戦までに未完で終わったものなど、主として一般に 「秘匿基地」 と言われているような、例えば沖縄の 与根航空基地 など、は全て省略しています。


(参考) : 1945年12月撮影の米軍写真より与根飛行場予定建設地跡



 旧陸軍


旧陸軍の航空基地は次の8個所とされています。


  徳之島 昭和18年に鹿児島県大島郡天城村浅間 (現天城町浅間) の地に建設が開始され、翌19年5月 (一説には6月) には概成したとされる飛行場で、所在地名から通称 浅間飛行場 とも呼ばれています。 昭和19年10月以降は米軍機の空襲により基地機能はほぼ喪失したとされているものの、昭和20年3月~5月にかけて九州から沖縄に向かう特攻機の中継基地として使用されたとされています。 戦後はそのまま放棄され元の農地となりましたが、現在でも滑走路跡が道路として残っています。

( 平成8年版 『航空路図誌』 より昭和37年に新たに建設された徳之島空港 )
  伊江島 昭和18年から南西方面の防衛強化一貫として沖縄県国頭郡伊江村に建設されたもので、滑走路1本の「東」、X字の2本の滑走路の「中」の2つの飛行場が建設され、19年10月には概成したとされますが、3つ目の西飛行場は建設開始直後に中止され放棄されています。 結局のところ、旧陸軍として使用することのないまま昭和20年4月には米軍に占領され、直ちに大改修されて沖縄本島及び南西諸島方面などに対する航空作戦基地として使用されました。 戦後は一部が住民に解放されたものの、現在に至るも中飛行場は米海兵隊の 伊江島補助飛行場 として使用、これより島の西側地区は演習場としてなっています。 東飛行場は昭和45年に返還され、昭和50年になって沖縄博に併せて地方管理空港である 伊江島空港 となったものの、僅か2年で定期航路は廃止され、その後平成20年まではチャーター便がありましたが、以降は緊急輸送などで使用されるのみとなって現在に至っています。

( 平成元年版 『航空路図誌』 より )
  沖縄北 昭和17年中頃から中頭郡読谷山村 (現中頭郡読谷村) の地に南方戦線への中継・補給基地のための用地買収が始まり、翌18年4月 (一説によると同年夏) に建設が始まったとされ、19年9月には概成したとされており、所在地名から通称 読谷飛行場 とも呼ばれました。 同年10月に大規模な空襲を受けて甚大な被害を被ったものの、急速復旧によりその後もフィリピン及び台湾方面への中継基地として機能しましたが、昭和20年3月には戦況により米軍の沖縄侵攻に備えて第32軍自らの手によって多数の所在航空機と共に基地を破壊してしまいました。 同年4月の米軍沖縄侵攻により占領され、米軍は直ちに基地を修復して占領3日後には米海軍・海兵隊の 読谷飛行場 として運用を開始したとされ、続いて7月には米陸軍が使用したとされています。 しかしながら、その後嘉手納飛行場の整備が整うに連れて同基地へ集約され、昭和22年には常駐の飛行隊は置かれず、補助飛行場 (Auxilialy Airfield) としての位置付けとなりました。 その後いつまで本基地が飛行場として維持されたかは不明ですが、昭和35年 (1960年) 版の米軍地図ではまだ飛行場として記載されているものの既に放棄 (abandaned) と表示されています。 そして昭和45年 (1970年) 版の米軍地図にはまだ飛行場の記載はあるものの “Not Usable” とされており、平成13年版では飛行場の表示も無くなっています。 平成14年には完全返還となり、現在では米軍が建設した主滑走路跡の一部が道路となっている他は、航空基地であったことを窺わせるものはほとんど残されていません。 なお、沖縄北飛行場は当初から旧海軍との共同運用とされ、このため航空隊司令部レベルの通信施設などが設けられていました。
  沖縄中 昭和19年5月に中頭郡北谷村、嘉手納、屋良などを含む (現中頭郡嘉手納町) の地に第十号作戦準備の一貫として第32軍により建設され、沖縄北の補助飛行場の位置付けとして翌20年3月には概成したとされ、所在地名から通称 嘉手納飛行場 あるいは 屋良飛行場 などとも呼ばれました。 しかしながら、米軍の度重なる空襲を受けたこともあり、実戦運用されることが無いまま昭和20年4月の米軍沖縄侵攻により占領されました。 米軍占領後は直ちに大型爆撃機用の 嘉手納飛行場 として大拡張され、現在に至るも極東米空軍の中核基地として整備・運用されてきています。

( 平成8年版 『航空路図誌』 より )
  沖縄南 昭和19年5月に中頭郡浦添村仲西及び城間 (現浦添市宮城) の地に第十号作戦準備の一貫として第32軍により小型機用の基地として建設され、同年9月末には概成したとされ、所在地名から通称 仲西飛行場 あるいは 城間飛行場 などとも呼ばれました。 しかしながら同年10月からの度重なる空襲を受けて基地機能をほぼ喪失したまま20年4月の米軍沖縄侵攻により占領されました。 米軍は占領後の同年6月から本土爆撃用の飛行場として大拡張し、僅か7週間で再整備を終えて実戦運用に入っています。 戦後は航空基地を閉鎖して米陸軍の総合物資集積基地となり、昭和53年には米海兵隊に移管され牧港補給基地の キャンプ・キンザー となって現在に至っており、このため元の飛行場跡を示すものは何も残っていないようです。
  宮古中 昭和19年5月に宮古郡上野村野原 (現宮古島市野原上野) の地に建設され、 度重なる空襲と戦況の変化により、結局実戦運用されることなく終戦を迎えました。 戦後は基地としては放棄され、昭和55年になって一部が国有地として残った他はほとんどが元の地主に払い下げられて農耕地となり現在に至っています。
  宮古西 昭和19年5月に宮古郡下地村与那覇 (現宮古島市下地) の地に建設され、度重なる空襲と戦況の変化により、結局実戦運用することなく終戦を迎えました。 戦後は基地としては放棄され、昭和55年になって一部が国有地として残った他はほとんどが元の地主に払い下げられて農耕地となり現在に至っています。 なお、滑走路跡は来間島への来間大橋に通じる道路の一部となっているようです。
  石垣東 昭和19年6月沖縄県八重山郡大浜村白保 (現石垣市白保) の地に建設が開始されて、早くも8月には滑走路が完成したとされ、所在地名から通称 白保飛行場 とも呼ばれています。 19年10月以降度重なる空襲のためもあって終戦まで航空基地として機能することは無かったとされるものの、20年3月には沖縄方面に対する特攻機を発進させたとされています。 戦後は基地はそのまま放棄されましたが、用地は国有地のままであり、国との契約により農耕地として使用されつつ現在に至っています。


この他に、徳之島第二、沖縄東、宮古東のような終戦時までに完成に至らず工事中又は工事中止されたものが知られていますが、これらについては全て省略いたします。


(参考) : 1944年11月撮影の米軍写真より沖縄東飛行場予定建設地跡

また、大戦末期に通称 「秘匿飛行場」 と称する急造のものが各地に計画されましたが、実際に工事が行われたのかや終戦までに完成したのかなどさえ不明なものがほとんどで、日米双方の史料に基づきキチント確認出来るところ以外については全て省略しております。







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最終更新 : 05/May/2019