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沖縄北航空基地 |
沖縄北航空基地は、本来旧陸軍が南方戦線への中継・補給基地として沖縄県中頭郡読谷山村 (現中頭郡読谷村) の地に建設した沖縄北飛行場で、昭和17年に用地の買収を始めて昭和18年4月 (一説には夏) から工事を開始し、翌19年9月には概成したとされます。
しかしながら、当初から旧陸海軍共同使用とされ、旧海軍も航空隊司令部規模の通信施設などを設置しており、また実際に小禄基地と併せて実運用したほか、大戦末期には陸上発進型の 「桜花」 も配備されていました。
このため、本 『旧海軍の基地と施設』 コーナーでは航空基地は原則として旧海軍のもののみを採り上げておりますが、旧海軍の通信施設についての航空基地リストにもあげられていることから、基地の概要について本ページでご紹介することとします。
本基地は上記のとおり昭和19年9月にには概成し、引き続き拡張工事などが行われていましたが、同年10月の大空襲により甚大な被害を生じたとされています。 その後急速復旧が行われ、旧陸軍においてはフィリピン及び台湾方面への中継基地として活用しましたが、昭和20年3月になって戦況の変化により米軍の来攻に備えるべく、第32軍自らの手によって所在機と共に基地を破壊してしまったとされています。 この中には旧海軍機も含まれているようです。
20年4月の米軍沖縄侵攻により、上陸第1日目にして本基地は占領され、直ちに修復の上僅か3日後には米海軍・海兵隊の 読谷飛行場 (Yontan Airbase) として沖縄及び南西諸島方面に対する航空作戦に使用されています。
そして同年7月からは米陸軍が使用したとされていますが、飛行隊はその後嘉手納飛行場の整備が整うに連れて順次同基地へ集約され、昭和22年には常駐の飛行隊は置かれず、補助飛行場 (Auxilialy Airfield) としての位置付けとなりました。
その後いつまで本基地が飛行場として維持されたかは不明ですが、昭和35年 (1960年) 版の米軍地図ではまだ飛行場として記載されているものの既に放棄 (abandaned) と表示されています。 そして昭和45年 (1970年) 版の米軍地図にはまだ飛行場の記載はあるものの “Not Usable” とされており、平成13年版では飛行場の表示も無くなっています。
平成14年には全面返還となり、現在では米軍が建設した主滑走路跡の一部が道路となっている他は、衛星写真で見る限りでは航空基地であったことを窺わせるものはほとんど残されていないようです。 (今に残る遺構探しなどは本サイトの対象外ですが。)
昭和20年4月3日撮影の沖縄北基地。 占領3日目です。 | 同4月6日撮影の沖縄北基地。 既に修復がなされています。 | |
昭和20年3月27日米軍撮影の空襲下の沖縄北基地 | 昭和20年4月15日米軍撮影の煌々たる照明下で夜間作業中の沖縄北基地 |
最終更新 : 05/May/2019