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近畿地方所在の旧陸海軍航空基地




近畿地方所在旧陸海軍航空基地
黄色 は旧海軍の陸上機、緑色 は水上機、白色 は旧陸軍の飛行場を示します。
( 元画像 : Google Earth より )
峰山 舞鶴 福知山 社 姫路 鳴尾 大津 第一鈴鹿 第二鈴鹿 伊賀上野 三重 第一大和 第二大和 浜島 串本 潮岬 八日市 北伊勢 四日市 京都 伊丹 大阪 大正 佐野 由良 明野 三木 加古川 明石

( ↑ 航空基地名にカーソルを当てると関連する図・写真のデータ・ウィンドがポップアップします )



近畿地方所在の旧陸海軍の航空基地は次のとおりです。



 旧海軍


旧海軍の航空基地は次の16個所とされています。 詳細について各航空基地の当該頁を作成する予定にしています。


  峰 山
  舞 鶴 昭和10年に京都府与謝郡栗田村上司 (現宮津市上司) の地に舞鶴要港部所属の舞鶴航空隊が置かれたことに始まる水上機の実用基地で、他の鎮守府・要港部が水上機と陸上機の両方の航空基地が置かれたのに対して、舞鶴はこの水上機基地のみでした。 戦後は漁港の一部及び水産高校と中学校の敷地となっています。
  福知山
  社
  姫 路
  鳴 尾
  大 津
  第一鈴鹿
  第二鈴鹿
  伊賀上野
  三 重
  第一大和
  第二大和
  浜 島
  串 本
  潮 岬 昭和8年前後に和歌山県(現東牟婁郡串本町潮岬)の地に不時着陸場として建設されたもので、通称 イサデ飛行場 とも呼ばれましたが、その後の運用状況などは不詳です。 戦後はそのまま放棄されてそのまま広大な草原になりましたが、現在では学校、墓地、住宅地などになっているようです。



 旧陸軍


旧陸軍の航空基地は次の13個所とされています。


  八日市 昭和11年に滋賀県神崎郡御園村 (現東近江市沖野) に置かれたもので、元々は地元の有志が建設した 沖野ヶ原飛行場 に旧陸軍の飛行場として誘致し、第八飛行教育隊の訓練基地としたとされています。 終戦までの運用状況などの詳細は不明ですが、当初の飛行場より大幅に拡張されていることが大戦末期の米軍写真で確認出来ます。 ポップアップ・データの衛星写真で赤線で示したところが当初の飛行場地区で、黄色線で示したところが米軍の偵察写真から判別できる大戦末期のものです。 ただし昭和20年の米軍地図では元の飛行場地区のままとなっています。 戦後は一部は地権者に返還、残りは民間に払い下げられ、衛星写真を見る限りでは土地の区画割りなどによって僅かに飛行場跡を窺い知ることがだけです。
  四日市 大戦末期に北伊勢飛行場のサテライトとして北北東僅か5kmのところに建設されたもので、その所在地名から通称 伊船飛行場 とも呼ばれていますが、終戦までには完成していなかったとされています。 米軍は建設時からその状況を把握しており、昭和20年の偵察写真による情報分析史料に基づき、同年の米軍地図には誘導路を含む詳細なレイアウトが記載されています。 ただし同地図は図版の関係で東側部分が切れているのが残念なところです。 戦後はそのまま放棄されたようで、現在では二本のX字型の滑走路 (2200m、1700m) 跡を含めてここに飛行場があったことを示すものは何も無いようですが、誘導路跡の一部がそのまま道路になっています。 
  北伊勢 大戦末期になって三重県鈴鹿郡川崎村 (現亀山市能褒野町) の地に建設されたもので、その所在地名から通称 亀山飛行場 とも呼ばれていますが、正確な建設経緯などは不詳で、終戦までに完成していたのかどうかも判りません。 戦後はそのまま民間に払い下げられて農耕地となったようで、現在では敷地の一部が古河電工三重事業所敷地及び住宅地などになり、衛星写真で見る限りでは僅かに区画割りになどに用地跡を残す以外は飛行場跡を示すものは何もないようです。
  明 野 大正9年に三重県大字村松 (現伊勢市小俣町明野) の明野ヶ原に陸軍飛行学校の射撃班が置かれ、これが翌10年に陸軍飛行学校明野分校となったたことを嚆矢とするもので、所在地名から通称 明野ヶ原飛行場 とも呼ばれていました。 同分校は大正13年には明野陸軍飛行学校に昇格して独立し、本飛行場は本格的な訓練基地として使用されつつ次第に整備・拡張されました。 昭和19年には飛行学校は明野教導飛行師団に改編され、更に翌20年には第1教導飛行隊と飛行第111戦隊に分離・改編されたところで終戦を迎えます。 終戦後の状況についてはよく判りませんが、1953年版の米軍地図には飛行場としての記載がないことから放置状態にあったのではと思われます。 昭和30年にこの地に陸上自衛隊航空学校が浜松から移転して明野駐屯地となり現在に至っておりますが、用地は終戦時よりは大幅に縮小され、かつ元々の飛行場跡よりも小規模なものとなっています。 現在では駐屯地以外の用地は農耕地として残っている他は宅地や工場などになっています。 なお、ポップアップ・データ中で赤線が終戦時の用地範囲、緑線青線が昭和11年版水路部資料にある用地と飛行場範囲を示します。

( 平成8年版航空路図誌より )
  京 都 昭和17年に京都府久世郡佐山村 (現久世郡久御山町) の地に逓信省所管の京都航空機搭乗員養成所として開設されたものですが、実質的に旧陸軍の航空予備員を養成するもので、その所在地名から通称 小倉飛行場 とも呼ばれていました。 終戦まで搭乗員の訓練基地として使用され、戦後は民間に払い下げられて農耕地となりました。 現在では一部を住宅や工場が建ち並んでおり、衛星写真で見る限りでは、飛行場跡を示すものは用地跡の区画割り以外には何も残っておりません。
  伊 丹 昭和14年に兵庫県川辺郡伊丹町 (現大阪府豊中市、兵庫県伊丹市など) の地に大阪木津川河口にあった大阪飛行場を移転したもので、当初は 大阪第二飛行場 と呼ばれていました。 昭和17年に旧陸軍により徴用されて 伊丹陸軍飛行場 となり、更なる拡張工事などが行われ、また飛行第56戦隊が一時使用したとされていますが、終戦までの運用状況などについては不詳です。 戦後は米軍に接収され Itami Air Base となりましたが、昭和33年には接収解除・返還されて大阪空港となり、翌34年には第1種空港の大阪国際空港となって拡張・近代化が行われてきました。 平成6年には関西国際空港が開港し、一時国際線は全て同空港に移されたものの、結局両空港共存の方針に変わり現在に至っています。

( 平成8年版航空路図誌より )
  大 阪 元々は昭和9年に大阪府中河内郡盾津村 (現東大阪市松原) の地に民間団体の手によって 大阪防空飛行場 という名称で建設された民間搭乗員養成用のものですが、完成と同時に旧陸軍に寄贈され 大阪飛行場 と改称されました。 その所在地名から通称 盾津飛行場 とも呼ばれています。 その後旧陸軍の手によって拡張が行われ、終戦までにポップアップ・データに示すように元々の移管時より極めて大規模なものとなっています。 終戦後は放棄されて順次民間の開墾地となり昭和25年には全面的に民間に払い下げられて農耕地となりましたが、現在では全くの住宅地及び工場地帯となっており、飛行場跡を窺わせるものは何も残っていないようです。 なお、日本語版Wikiなどでは昭和15年に旧海軍に移管されたとするものがありますが、終戦まで旧陸軍の大阪飛行場のままです。 
  大 正 昭和13年に大阪府中河内郡大正村 (現八尾市空港町など) の地に逓信省所管の米子航空機搭乗員養成所阪神分教場として開設されたのを嚆矢とし、同14年に大正飛行場と改称されました。 16年には旧陸軍の所管となり、加古川飛行場から飛行第十三戦隊が移駐しています。 その後、第十八飛行団司令部を始め、飛行第246戦隊などが置かれた、近畿地方の防空任務に当たったとされています。 戦後は米軍に接収されて Hanshin Air Base となりましたが、昭和29年には接収解除・全面返還となり、一部は民間に払い下げられたものの、運輸省管轄地に陸上自衛隊第3管区飛行隊が浜松から移駐して八尾分屯地となり、飛行場そのものは民間の八尾飛行場となって、昭和36年に第二種空港の八尾空港となって現在に至っています。 滑走路や空港設備などは改修・近代化されたものの、全体のレイアウトは終戦時の形態をほぼ保っていると言えます。

( 平成8年版航空路図誌より )
  佐 野 昭和17年に大阪府泉南郡佐野町 (現泉佐野市葵町など) に建設が開始されて同19年6月に概成したとされ、明野陸軍飛行学校佐野分教場が置かれました。 終戦まで訓練基地として使用され、特攻機の中継地にもなったとされています。 戦後はそのまま放棄され農耕地となりましたが、現在では市街化が進むと共に、関西国際空港へ通じる自動車道が通っており、衛星写真で見る限りでは飛行場跡地を示すものは何も残っていないようです。
  三 木 昭和19年に兵庫県美嚢郡別所村 (現‎三木市‎別所町) 西這田の丘陵地に建設が開始され、同年10月にはまだ工事中の段階で飛行訓練が始められたとされています。 終戦時もまだ未完成の状態であったようで、飛行場敷地の境界はもちろん、3本が組み合わさった形とされる滑走路も不明確で、よくこのような地に飛行場を建造したと思うようないかにも戦時急造らしい姿です。 戦後はそのまま放棄されて農耕地となり、灌漑用の溜め池も出来ましたが、現在では再開発が進み、工場などが進出してきているようで、衛星写真で見る限りここに飛行場があったことを窺わせるものは何もありません。
  加古川 昭和12年に兵庫県加古川郡尾上村 (現加古川市尾上) の加古川河口に建設されたもので、所在地名から通称 尾上飛行場 とも呼ばれていました。 開設後は飛行第13連隊や第1教育飛行隊などが置かれるなど、主として戦闘機の訓練基地として使用されましたが、大戦末期には九州などへ進出する特攻機の中継基地ともなったとされています。 戦後は一時藤田航空により小型機など運航されたり、陸上自衛隊の自動車教習所などにも使われたとされていますが、現在では工場、住宅地などになり、衛星写真で見る限りでは飛行場跡を窺わせるものは何も残っていません。 
  明 石 本来は明石市林崎村に置かれた川崎飛行機明石工場に隣接するそのテスト用のものですが、大戦中は旧陸軍の飛行場としても使用されていたようで、米軍は本飛行場を旧陸軍の戦闘機用として認識しておりました。 旧陸軍としての運用状況などは不詳ですが、米軍の情報及び偵察写真では多数の掩体壕が確認出来るものの舗装された滑走路などは無かったとされています。 戦後は川崎飛行機自体が解体されたこともあり、用地の大部分はそのまま川崎重工明石工場に、西側の一部は住宅地などになっており、ここに飛行場があったことを示すものは何も残されていないようです。
  由 良 淡路島の三原郡榎列村 (現南あわじ市榎列) の地を接収して昭和19年から建設が始まり、翌20年7月には概成したとされていますが、実運用の実績はなかったようです。 戦後はそのまま放棄されて元の地権者などに返還され、一帯は再度元の農耕地帯に戻りました。 現在でも用地の中心部を高速道路が走る以外は田園風景が広がっておりますが、飛行場用地の外周は道路及び用水路などによりほぼそのまま残っております。


この他に、大阪城東 (大阪)、和歌山 (和歌山) 、京都 (京都) 、姫路城北(姫路)などの練兵場や長田野 (福知山) などの演習場が不時着陸場として使用されましたが、これらについては全て省略します。







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最終更新 : 11/Nov/2018