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大和航空基地 (付:第二大和航空基地) |
大和航空基地は、昭和18年に当初予科練教育用として計画・選定され、奈良県磯城郡柳本町 (現天理市長柄町、岸田町) の水田地帯を測量の上用地買収・借用が行われて工事が開始され、昭和19年6月から本格的な建設工事が行われました。 そして昭和20年2月初旬には滑走路1本を始めとする基地施設が概成し、同月12日には第二美保航空隊が大和航空隊として本基地へ移転して開設されたものです。
大和航空隊の開隊以降の状況は次のとおりです。
昭和20年 2月11日 |
第二美保航空隊が本基地に移転し開隊 |
同 | 第十一連合航空隊に編入 |
同 | 練習航空隊に指定、陸上練習機操縦訓練担当 |
昭和20年 5月 5日 | 同指定解除 |
同 | 第三航空艦隊第十三航空戦隊に編入 |
なお、昭和20年5月の練習航空隊指定解除以降は、九三式中間練習機による急降下爆撃訓練が主体になったとされています。
また、昭和20年7月15日には空地分離に基づく乙航空隊である近畿航空隊が第三航空艦隊隷下に新編され、本基地の管理部隊となり、翌16日には第六〇一航空隊 (原駐基地 : 厚木) の戦闘第三〇八飛行隊が本基地に進出したとされています。
終戦時に本基地に所在した航空機は次のとおりであったとされています。
零式艦上戦闘機 x 49機 (内6機破損)、 一式陸攻 x 3機 (内1機破損)、 紫電 x 4機 (内2機破損)、 彩雲 x 3機 (内1機破損)、 天山 x 1機、 彗星 x 3機、九三式中等練習機 x 76機 (内9機破損)、 陸軍機 (機種不明) x 2機 (2機とも破損)
また、終戦時の本基地の要目は次のとおりとされています。
用地 : 2,620,000 m2、 建物 : 180棟 71,000 m2、 整備場 : 6か所 (内1か所焼失)、 有蓋掩体 : 4か所、 滑走路 : 50 m x 1500 m、 誘導路 : 9,000 m (借地)、 随道 : 2,100 m (借地)、 排水設備 : 一式、 給水設備 : 一式
終戦後は米軍に接収されましたが、昭和21年10月には撤退し、滑走路以外は大蔵省に返還となり、22年5月から元地権者を中心に開放されて23年5月までに全面払い下げとなっております。 そして24年3月には全施設が撤去されて農耕地に転用されました。 衛星写真で見る限りでは現在でもほとんどが農耕地のままで広がっています。
指揮所前にて (撮影時期不詳) | 飛行場にて特攻隊出撃見送り (同左) | |
兵舎前にて記念撮影 (同上) | ||
練兵場にて特攻隊編成式 (同上) |
(付) 第二大和航空基地
本航空基地は、奈良県宇智郡大河太村 (現在の五条市大野新田町) の阿田峰 (阿太峯) と言われる地に秘匿基地、いわゆる “牧場” の一つとして設けられたもので、かつ終戦までに完成したとされておりませんので、本来ですと本コーナーでは取り上げないものですが、旧海軍において 「第二大和航空基地」 と名称が付与されており、かつ米軍史料でもその存在が確認できますので、「大和航空基地」 と一緒に取り上げることとします。
本飛行場は、昭和20年6月頃に着工されたようですが、終戦までには完成に至らなかったようです。
地元の滑空機 (グライダー) の練習に使われたとされる写真などが残されてるようですが (撮影場所、撮影日時など確たるところは不詳です)、実際のところ、簡単な滑走路1本であり、せいぜいが九三式中間練習機などの分散使用程度が限度であったと考えられます。
旧海軍の終戦時の公式史料では次のとおりとされています。
用地 : 30,000 m2 (借用)、 滑走路 : 30 x 600m
結局、大戦中に特攻機も含めて使用されることは無く、終戦後はそのまま放棄され元の地権者に返還されました。
現在の衛星写真で見る限りでは、元の滑走路跡の一部が道路なっているだけのようです。 (基地建設のために西側に移転した阿太峯神社はそのままになっています。)
(写真収集中) | ||
最終更新 : 27/Jun/2021