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姫路航空基地



姫路航空基地は、昭和16年の第5次海軍軍備充実計画 (⑤計画)による練習航空隊17隊の整備の一環として、大量に採用した第14期の甲種飛行予科練習生を収容、教育するために、兵庫県加西郡九会村 (現在の加西市鶉野町) の山間の地を選定、昭和17年に用地買収のうえ建設が開始され、昭和18年10月1日に姫路海軍航空隊の開隊に伴い設置されたものです。  

当時、地元ではその所在地名から 「鶉野飛行場」 とも呼ばれていたようですが、これは “あくまでも通称” で、旧海軍の制式名称ではなく、また今に残る旧海軍の史料にも全く出てきません。

姫路航空隊の状況の概略は次のとおりです。

昭和18年10月 1日
姫路航空隊開隊
    同 第十二連合航空隊に編入、練習航空隊に指定され、艦攻実用機教程を担当
昭和20年 2月11日 峯山分遣隊を置く
  同   3月 1日 同上廃止 (峯山航空隊として開隊)
  同   5月 5日 解隊

本基地を原駐として開隊された航空隊は次の2つですが、両航空隊とも本基地に戻ることはありませんでした。

第三一航空隊 (2代) 昭和19年 3月 1日   開隊 (陸練)
     同   第三南遣艦隊に編入
     同   練習航空隊に指定され、陸上練習機操縦教育を担当
     同   マニラに配備
  同  10月 1日   第二南遣艦隊に所属替、ジャワに転進
昭和20年 2月 5日   第十方面艦隊に所属替
  同   4月 1日   第十三航空艦隊に所属替

第三二航空隊 (2代) 昭和19年 3月 1日   開隊 (陸練)
     同   第三南遣艦隊に編入
     同   練習航空隊に指定され、陸上練習機操縦教育を担当
     同   サランガニー (ミンダナオ島) に配備
  同   7月10日   解隊

また昭和17年に川崎航空機(株)が元日本毛織物姫路工場を買収して姫路製作所として紫電の生産を開始したものの、組立後の試験用滑走路を有しなかったことから、姫路航空基地隣接地の海軍用地内に鶉野工場の新設が計画され、昭和19年8月に同工場が建設され、同年12月より紫電を、続いて紫電改の組立を開始したとされています。

昭和20年3月23日、特別攻撃隊の白鷺隊が宇佐基地に進出したのを始め、その後第一~第三護皇白鷺隊などが出撃、これに伴い稼動機の全機を消耗したことにより、昭和20年5月5日、姫路航空隊は解隊となります。

白鷺隊は九七艦攻x30機及び天山x30機、第一~第三護皇白鷺隊は全20機中、第一の天山x1機以外は全て九七艦攻とされています。

この姫路航空隊解隊に伴い、同日付で姫路航空基地は第5航空艦隊が基地管理部隊に指定され、南西諸島方面への出撃の中継基地として、また阪神地区の防空のために各地からの進出基地として使用されました。

これにより、本土決戦用として温存されていた航空隊の前進駐留基地として用いられることになります。

終戦直前の5月5日に第三岡崎航空隊姫路派遣隊の九三中練x30機、7月15日に筑波航空隊第四〇三飛行隊の紫電改x30機が本基地に進出しましたが、本基地での本格的な作戦運用はありません。

終戦に伴い、その直後には戦闘第四〇二飛行隊 (福知山基地) の紫電 (機数不詳) が本基地に集結、米軍接収時に本基地に現存した航空機は、紫電x67機、零練戦x3基、彗星x1機、銀河x1機、九〇式練x1基、白菊x1機、九三中練x2機、陸軍の高練 (機種不詳) x1機とされており、これとは別に米軍の指示により可動の紫電x3機が元搭乗員により横須賀海軍基地へ移送されています。

航空基地としての姫路基地は、当初転圧式の2本の滑走路がV字形に整備されたようですが、昭和19年5月にコンクリート製の滑走路 (当初 45mx800m) がこれに△形に整備されたましたが、元の2本の滑走路はほとんど使用されなくなったようで、終戦時の旧海軍史料にも、また1945年頃米軍撮影の写真にも見当たりません。

ネットなどではこのコンクリート製の滑走路が、川西航空機の鶉野工場で生産された紫電、紫電改のテスト及び搬出専用とするものがありますが、これは誤りです。

そして昭和20年1月に入ると、基地防護施設の拡充や、川西航空機の鶉野工場の疎開が始まり、3月からは滑走路の延長、誘導路、掩体壕などの設営が行われます。


終戦後は、姫路航空基地は大蔵省に移管された後、連合軍に接収されましたが、翌21年には接収解除となり、昭和24年には航空基地の管理地区及びコンクリート製滑走路を除き農地として払い下げられました。

昭和27年には警察予備隊が滑走路の共有を開始、その後陸上自衛隊の 鶉野駐屯地 となり、昭和32年には滑走路が接収解除となって、昭和37年には大蔵省により滑走路の北東側約1/4が農林省(当時)、残りの南西側が防衛庁(当時) に移管され、更に昭和51年には陸自青野ヶ原駐屯地の 鶉野演習場 となりました。

そして、滑走路跡を中心とする残った陸上自衛隊の鶉野演習場跡は、平成28年に防衛省から加西市に払い下げられ、防災拠点として整備されることになりましたが、元のコンクリート製滑走路の南西側は依然としてそのまま放置された状況となっています。

現在では、加西市の防災拠点となった北東側のこの元のコンクリートは剝がされて航空機格納庫風の防災倉庫が建てられ、ここに復元された紫電改x1機が保管・展示されており、また同滑走のほぼ中央部南東側に平和記念館が建てられている他、姫路航空隊の慰霊碑が建立されているとされるなどはあるものの、その他には衛星写真で見る限り元の姫路航空基地の面影を残すものはほぼありません。

加西市役所では本基地の所在地が同市であるにも関わらず元の姫路航空基地の 「姫路」 という言葉を隣接する高知名度の姫路市に対してこれを避けて、わざわざ 「鶉野飛行場跡」 と宣伝しているようですが、上述のとおり、旧海軍には 「鶉野飛行場」 などいうものはありませんので、観光客寄せのための謳い文句に過ぎず、また川崎航空機の鶉野工場のものでもありませんし、本基地で紫電や紫電改が本格作戦運用されたことはありませんので、正しい歴史継承のあり方としては好ましいこととは思われません。

因みに、川西航空機鶉野工場跡は、現在では 「兵庫ネクストファーム」 という巨大なハウス農場になっているようですね。



  
1945年のの米軍地図より姫路基地周辺位置図。    現在の衛星写真から、周辺航空基地との関係。 黄色文字は旧海軍、文字は旧陸軍です。
(元画像 : Google Earth より) 
 
終戦時の旧海軍史料より姫路航空基地概要図。   国土地理院の電子地図から当該部分。
   
1945年の米海軍史料より姫路基地レイアウト。    
 
1945年の米軍史料より。 滑走路やエプロンのコンクリート部分が判りずらいですが、基地全体のレイアウトがよく判ります。 (上が北北東方向)   衛星写真による現在の状況。 コンクリート製滑走路跡以外では当時の基地を窺わせるものはほとんど残されていません。
(元画像 : Google Earth より)
   
1947年の米軍航空写真より。 まだ基地全体のレイアウトはほぼ残っています。    
 
1980年版の米国国防地図局のJOG (Joint Operational Graphic) より。 当時陸自演習場ですが、航空基地としての表示がなされています。   左と同時期の国土地理院の航空写真より、元航空基地跡。



姫路航空基地に立ち寄った峯山航空隊の中練機隊 (昭和20年3月23日)
本部庁舎前における航空隊司令部記念写真 (昭和18年開隊時頃と推定)
第14期甲種飛行予備練習生の卒業写真 (昭和19年4月15日)






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最終更新 : 12/Dec/2021