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東北地方所在の旧陸海軍航空基地 |
黄色 は旧海軍の陸上機、緑色 は水上機、赤色 は水陸両用、白色 は旧陸軍の飛行場を示します。 ( 元画像 : Google Earth より ) |
( ↑ 航空基地名にカーソルを当てると関連する図・写真のデータ・ウィンドがポップアップします )
東北地方所在の旧陸海軍の航空基地は次のとおりです。
旧海軍の航空基地は次の9個所とされています。 詳細は各航空基地の当該頁 (現在3個所公開) をご覧下さい。
樺 山 | : | 昭和5年に大湊要港部 (当時) の不時着陸場として建設が始まったものですが、翌6年には大湊航空隊新設に伴う新たな大湊航空基地の設置が決定したため、本格的な基地整備には到らず、またここを原駐基地とする航空隊などもはなく、今次大戦終戦にまで主として北海道・千島方面への中継地や不時着陸場、輸送基地として使用されました。 戦後は米軍の管理下に置かれたようですが、昭和29年に海上自衛隊の所有となったものの航空基地として使用されることはなく、昭和52年には用途変更が行われ海上自衛隊の大湊通信所がおかれました。 このため現在に至るも滑走路を含め当時の状況が比較的良く残されています。 |
大 湊 | : | 昭和8年に大湊要港部 (当時) 所属の大湊航空隊の原駐基地として開設されたもので、当初は水上機用のみでしたが、その後陸上機用の滑走路や施設が整備されました。 大戦末期には第九〇三航空隊の原駐基地として使用されています。 終戦後は米軍に接収されましたが、昭和31年に海上自衛隊大湊地方隊所属の大湊航空隊の基地となり現在に至っています。 このため、現在でも当時の状況が比較的良く残されています。 なお同航空隊は海自航空部隊の改編によりその後第21航空群所属となり、現在では更に第25航空隊に改称されています。 |
三 沢 | : | 昭和17年2月10日青森県上北郡三沢村 (現三沢市) に大湊警備府所属の三沢航空隊の原駐基地として開設されたことに始まります。 終後は米軍に接収され Misawa Air Base となりましたが、昭和27年には民間路線との共同使用、昭和33年からは航空自衛隊との共同使用となって、改修・拡張を経つつ現在に至っています。 |
山田湾 | : | 昭和18年に岩手県下閉伊郡山田町に開設され、館山航空隊山田分遣隊 (後に第九〇三航空隊山田湾派遣隊となる) が置かれた水上機基地です。 戦後は民間に払い下げられ大沢漁港となっています。 |
神 町 | : | 昭和19年12月5日山形県北村山郡 (現東根市) に谷田部航空隊が移転した神町航空隊の原駐基地として開設されたものです。 終戦後は米軍に接収され、昭和31年に接収解除・返還されて、元の管理地区は陸上自衛隊神町駐屯地に、飛行場地区は一時演習場となりましたが、昭和39年に飛行場地区は運輸省所管の神町空港となり、翌40年には山形空港と改称されて現在に至っています。 |
松 島 | : | 昭和18年5月に宮城県桃生郡矢本町 (現東松島市矢本) に開設され、霞ヶ浦航空隊松島分遣隊が置かれたことに始まります。 所在地名から通称 矢本飛行場 とも呼ばれていました。 戦後は米軍に接収されて Camp Matsushima となり、空挺師団の連隊が駐屯しました。 昭和29年には保安隊の臨時松島派遣隊が置かれましたが、翌30年には接収解除・返還されて以後航空自衛隊の松島基地となって現在に至っています。 |
第一郡山 | : | 昭和19年2月1日福島県田村郡守山町徳定に郡山航空隊の原駐基地たる 郡山航空基地 として開設されましたが、練習航空隊として整備教育が担当であったため飛行場施設は保有しておりません。 翌20年2月11日に 第一郡山航空基地 と改称されました。 戦後は民間に払い下げられ、現在では日本大学工学部及び同付属東北高校の敷地となっています。 |
第二郡山 | : | 昭和20年2月11日第一郡山航空基地に隣接する田村郡高瀬村金谷 (現郡山市田村町) に練習航空隊操縦教育担当の第二郡山航空隊の原駐基地として開設されたものです。 戦後は民間に払い下げられ、現在では住宅地の真っ直中となっています。 |
第三郡山 | : | 福島県 (現郡山市大規町) に設置予定で工事がすすめられましたものですが、終戦までに滑走路1本が概略完成した段階であったとされています。 戦後はそのまま放棄され、用地の中心部は現陸上自衛隊郡山駐屯地となっており、周辺部は全くの住宅街の中となっています。 |
旧陸軍の航空基地は次の12個所とされています。
青 森 | : | 昭和8年に青森県東津軽郡油川村(現青森市油川町)の羽白に民間の 油川飛行場 として開設され、同12年には大日本航空 (株) の東京 ~ 札幌線の中継地となりましたが、これは昭和15年には廃止されたようです。 昭和16年に旧陸軍の基地に転用されて同18年頃から拡張工事が行われましたが、大戦中の運用状況などは不詳です。 終戦後は米軍に接収されたものの、昭和22年には接収解除となり、用地はその後引揚者の入植地となったようです。 現在では用地の大部分は住宅地となっていますが、衛星写真で見る限りでは土地の区画割りに終戦時の状況が残されています。 |
淋 代 | : | 青森県三沢村に置かれた飛行場ですが、何故か旧陸軍側の史料には全く出てきませんで、大戦中の米軍史料によって地図及び写真と共にその概要が知られている航空基地です。 大戦中の状況についても全く不明ですが、戦後はそのまま放棄又は民間に払い下げられたようで、現在の衛星写真を見る限りでは基地跡を示すものは何もないようです。 なお、本飛行場と戦前 「ミス・ビードル号」 の太平洋無着陸横断飛行の離陸地で知られる現在の淋代海岸にあった臨時滑走路とは全くの別物です。 |
八 戸 | : | 昭和15年に青森県八戸市高舘の八太郎沼の用地を買収し同16年に整備されたものですが、大戦中の運用状況については不詳です。 終戦後は米軍の Camp Haungen として使用され、この間に南側に新たな滑走路が建設されました。 米軍は昭和31年に撤退、替わって元の飛行場地区は陸上自衛隊八戸駐屯地、新滑走路地区は海上自衛隊八戸基地となり、こちらは一時航空自衛隊及び民間機も使用しました。 現在では元の飛行場地区は滑走路及び誘導路の一部が残っていますが、航空機の運用はなされていません。 |
能 代 | : | 秋田県能代市東雲村の東雲原に置かれた飛行場で、所在地名から通称 東雲飛行場 とも呼ばれました。 昭和12年の適地調査により設置が決定され、同15年に開設されたものです。 (一部には昭和12年に用地が旧陸軍に献納されたとの説もありますが根拠不明です。) 大戦中の運用状況などは不詳ですが、終戦後は民間に払い下げられて開拓地となり、現在でも農耕地が広がる田園風景が広がっています。 |
岩 手 | : | 昭和13年に地元有志団隊から旧陸軍に献納されたもので、所在地名から通称 後藤野飛行場 とも呼ばれました。 訓練基地として使用された後、昭和19年頃以降は実用基地となりました。 終戦後は米軍の手により飛行場施設は破棄され、用地は民間に払い下げられて開拓団が入植して田園地帯となった他、現在では一部は工業団地となっています。 |
真室川 | : | 昭和15年に山形県最上郡豊里村 (現真室川町) の藍野原に旧陸軍の訓練基地として整備されたものですが、元々は昭和11年に村立の飛行場として開設されたともされています。 熊谷陸軍飛行学校の分教場が置かれていたとされていますが、大戦中の運用状況なども含め詳細は判りません。 戦後は民間に払い下げられ、現在でもほとんどが農耕地となっています。 |
宮城野 | : | 宮城県仙台市の市街にある旧陸軍の宮城野原練兵場を飛行場としても使用したもので、昭和8年に南南東約3kmの霞目に飛行場が出来て以降は 仙台第一飛行場 とも呼ばれていました。 なお、この昭和8年以降は旧陸軍の飛行場としては使用されなかったとするものもありますが、米軍史料では大戦中も運用されていたとされています。 終戦後は米軍の2つの駐屯地に挿まれた形になったため特に活用はされなかったようで、米軍撤退後の昭和24年には総合運動公園としての整備が始まり、現在では跡地の西側約半分が競技場や球場を備えた宮城野原運動公園となり、東側はJRの貨物コンテナ・ヤードとなっています。 |
仙 台 | : | 昭和8年に宮城野飛行場の南南東約3kmの霞目 (現仙台市若葉区霞目) に整備されたもので、所在地名から通称 霞目飛行場、又は 仙台第二飛行場 とも呼ばれました。 大戦中の運用状況などについては不詳です。 終戦後は米軍の駐屯地となりましたが、昭和32年に撤退後は陸上自衛隊の霞目駐屯地となり、東方方面航空隊(現東北方面輸送隊)が置かれました。 |
増 田 | : | 昭和15年に宮城県名取郡下増田村 (現名取市下増田) に開設された飛行場で、熊谷陸軍飛行学校の分教場が置かれた訓練基地ですが、大戦中の運用状況などについては不詳です。 終戦後は米軍に接収されましたが、昭和31年に解除・返還され、翌32年に防衛庁と運輸省の共同使用の仙台飛行場となりました。 昭和39年には仙台空港と改称、昭和47年には新たにB滑走路が増設され、以後このB滑走路の延長を中心にして拡張・近代化が行われてきました。 平成3年には国際空港となりましたが、平成23年の東日本大震災で大きな被害を受けたことはご承知のとおりです。 平成28年には完全民営化されて、現在に至っています。 |
原 町 | : | 昭和15年に福島県相馬郡原町 (現南相馬市) の雲雀ヶ原に設置されたもので、所在地名から通称 雲雀ヶ原飛行場 とも呼ばれています。 開設当初は熊谷陸軍飛行学校の分教場が置かれ、翌16年~17に明野陸軍飛行学校、水戸陸軍飛行学校、次いで鉾田陸軍飛行学校と点々とその所管が替わったものの、旧陸軍の訓練基地として使用されました。 昭和19年からは特攻隊の編成・出撃基地となったとされています。 終戦後は民間に払い下げられて主として農耕地となりましたが、現在では次第に南相馬市の住宅街が広がってきているようです。 |
磐 城 | : | 昭和17年に福島県双葉郡熊野村 (現双葉郡熊野町) 夫沢の長者ヶ原に設置されたもので、所在地名から通称 夫沢飛行場 あるいは 長者ヶ原飛行場 とも呼ばれています。 開設当初は宇都宮陸軍飛行学校の分校が置かれて訓練基地として運用され、昭和20年には特攻隊の編成・出撃基地となったとされています。 戦後は用地の約半分が製塩関係の用地となり、残りは元の地主に払い下げられましたが、一帯は昭和37年に東京電力の所有地となり、昭和41年に原子力発電所の建設が着工されました。 そうです、ここはまさに先の東日本大震災で原発事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所となっているところです。 |
矢 吹 | : | 昭和12年に福島県西白川郡矢吹町の矢吹が原に設置されたもので、所在地名から通称 矢吹が原飛行場 とも呼ばれています。 昭和15年に熊谷陸軍飛行学校の分教場が置かれ、以降本格的な訓練基地として運用されました。 終戦後は開拓者の入植地となり、一帯は農耕地が広がる田園地帯となりましたが、現在では宅地かも進んできているようです。 |
最終更新 : 14/Oct/2018