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北海道所在の旧陸海軍航空基地




北海道所在旧陸海軍航空基地
黄色 は旧海軍の陸上機、緑色 は水上機、白色 は旧陸軍の飛行場を示します。(民)は元民間空港であったものです。
( 元画像 : Google Earth より )
浅茅野第一 浅茅野第二 沼ノ端 旭川 白老 室蘭 八雲 札幌 札幌新 帯広第一 帯広第二 計根別第一 計根別第二 西春別 西別 苫小牧 稚内 能取 第一美幌 第二美幌 第三美幌 第一標津 第二標津 根室 根室不時着 厚岸 釧路不時着 広尾不時着 小樽 第一千歳 第二千歳 第三千歳

( ↑ 航空基地名にカーソルを当てると関連する図・写真のデータ・ウィンドがポップアップします )



北海道に所在した旧陸海軍の航空基地及び水上機基地で、日米の史料により正確な位置及び戦時中の基地の状態が確認できるのは上の位置図のとおりです。



 旧海軍


旧海軍の航空基地は次の13個所とされています。 詳細は各航空基地の当該頁 (現在6個所公開) をご覧下さい。


  稚 内  
  能 取
  第一美幌
  第二美幌
  第三美幌
  第一標津
  第二標津  
  根 室
  厚 岸
  第一千歳
  第二千歳  
  第三千歳  
  小 樽  


この他に、根室釧路、及び広尾の3か所に不時着陸場が設けられていました。




 旧陸軍


旧陸軍の航空基地は次の12個所とされています。


  浅茅野第一 宗谷郡猿払村字浅茅野 (現在の枝幸郡浜頓別町) の地に置かれた飛行場で、昭和17年6月に着工し、19年秋頃に完成したとされています。 板敷1本及び転圧式2本の滑走路の他、無蓋掩体などがあったとされていますが、どうも滑走路などは終戦までには未完だったようで、かつ終戦までの運用実績などは不詳です。 戦後はそのまま放置され、現在でもほとんどが牧草地となっているようです。
  浅茅野第二 宗谷郡猿払村浜鬼志別の地に置かれた飛行場で、昭和17年に着工し、19年7月頃に転圧式滑走路1本 (長さ 1,600m、幅 200m) などが概成したとされていますが、飛行場施設全体としては終戦までには未完だったようで、かつ終戦までの運用実績などは不詳です。 戦後はそのまま放置され、現在でもほとんどが牧草地となっているようです。
  計根別第一 現在の標津郡中標津町の南西約3.5kmの地に置かれた飛行場で、今次大戦後の昭和17年月に着工されて、19年2月に 「計根別飛行場」 として完成したとされています。 そして、同年9月に 「計根別第二飛行場」 が完成したことに伴い 「計根別第一飛行場」 と改称されたようです。 ただし、終戦までの運用実績及び施設などの詳細については不詳です。 戦後はそのまま放置されたようですが、昭和62年に民間会社によって元の誘導路跡を利用した 「別海フライトパーク」 が開設されたものの、平成4年には同社が解散したため有志がこれを引き継ぎ、モーターグライダーを運航して現在に至っています。
  計根別第二 計根別 (第一) 飛行場の東南東約4.5kmの地に置かれた飛行場で、昭和17年に着工され、19年の9月に完成したとされていますが、当初から単なる偽装目的のものだったようです。 これもあって、飛行場施設などの詳細については不明で、僅かに昭和19年内務省地理調査所の1/5万地形図及び昭和22年撮影の米軍写真などによってその場所などが判る程度に過ぎません。 当初から偽装目的でもあったことから、戦後はそのまま放置され、現在でも広大な牧草地が拡がっているだけで、飛行場跡を窺わせるものは何も残されていないようです。
  西 別 計根別第二飛行場の南南東約11.5kmの野付郡別海町中西別の地に置かれた飛行場で、計根別第二飛行場と同じく当初から単なる偽装目的のものだったようで、昭和17年に着工、19年に完成したとされています。 これもあって、計根別第二飛行場と同じく、飛行場施設などの詳細については不明で、僅かに昭和19年内務省地理調査所の1/5万地形図及び昭和22年撮影の米軍写真などによってその場所などが判る程度に過ぎません。 また、当初から偽装目的でもあったことから、戦後はそのまま放置され、現在でも広大な農地が拡がっているだけで、飛行場跡を窺わせるものは何も残されていないようです。 なお、本飛行場は旧陸軍の計根別飛行場群の一つとされ、「計根別第三飛行場」 とするものがありますが、本来の 「西別飛行場」 のままとしております。
  西春別 計根別 (第一) 飛行場の南南西約6kmの野付郡別海町西春別の地に置かれた飛行場で、計根別 (第一) のサテライトとして昭和17年に着工、19年に完成したとされています。 そして誘導路によって計根別 (第一) 飛行場と結ばれており、この誘導路の一部が補助滑走路としても使えるようになっていたとされています。 この誘導路の拡張部分を 「計根別第5飛行場」 とするものがありますが、詳細は不明ですのであり、いずれにしても本項では取り上げておりません。 また、同じくこの飛行場を旧陸軍の計根別飛行場群の一つである 「計根別第四飛行場」 とするものがありますが、本来の 「西春別飛行場」 のままとしております。 戦後は放置されて農地として払い下げられたようですが、昭和27年に米軍の不時着陸場として復旧され、32年に返還されて航空自衛隊が管理する 「計根別飛行場」 となりました。 昭和34年には民間共用の 「西春別空港」 となり北日本航空が定期路線を開設しましたが、旧海軍の第一標津航空基地跡が全面改装されて 「中標津空港」 が開港したことによりそこへ移転しております。 昭和38年には陸上自衛隊の 「別海駐屯地」 となり、飛行場施設は空自との共同使用となりましたが、おそらくこの時期と考えられますが、空自は基地としての機能を閉鎖し、現在では固定翼機の場外着陸場に指定されています。
  帯広第一 河西郡河西村 (現在の帯広市南町) の地に置かれた飛行場で、元々は昭和7年に民間飛行場として作られたものを、12年に旧陸軍用として転用工事を開始、15年に概成して 「帯広第一飛行場」 となりました。 昭和19年には本土決戦用として飛行第一師団が浜松から移駐しております。 戦後は米軍が駐屯し、この時に飛行場は破壊されましたが、昭和31年に陸上自衛隊が訓練用飛行場として滑走路を補修し (長さ 615m、幅 100m) 使用を開始しています。 そして昭和39年には滑走路の長さ 1,200m、幅 20mの第3種空港の 「帯広空港」 として官民共用となり、47年には滑走路を長さ 1,500m、幅 45mに延長しましたが、56年に現在の 「新帯広空港」 が開港したことにより共用を止め、防衛庁 (当時) 管轄の 「十勝飛行場」 となって現在に至っています。

   
( 平成8年版 『航空路図誌』 より )
  帯広第二 河東郡音更村字下音更 (現在の河東郡音更町) に置かれた飛行場で、旧陸軍用に転用された民間飛行場の代替えとして昭和14年に 「帯広飛行場」 として着工されましたが、翌15年9月に完成と同時に同じく旧陸軍の飛行場として転用、拡張され 「帯広第二飛行場」 (滑走路1本:長さ 600m、幅 200m) となったものです。 続いて第二次の拡張工事か行われて昭和19年に完成 (滑走路1本:長さ 970m) したとされていますが、終戦までの運用実績などは不詳です。 戦後はそのまま廃棄・放置され、現在でも農耕地が拡がっています。
  旭 川 上川郡旭川市春光町に置かれた飛行場で、元々は旧陸軍の旭川師団司令部や歩兵第26、28連隊、騎兵第7連隊などの駐屯地に隣接する練兵場を着陸場として使用したものです。 その後、飛行場としての整備が行われ、終戦までに本格的な 「旭川飛行場」 となりましたが、その時期などについては不詳です。 また終戦後の状況についても不詳ですが、昭和27年に警察予備隊の旭川部隊が新設されてこの地に置かれて以降、陸上自衛隊の旭川駐屯地となっており、また航空部隊も昭和29年に第2管区航空隊 (現在の第2飛行隊) が新編されて置かれて以降続いており、このための駐屯地内の飛行場たる防衛省管轄の 「旭川飛行場」 として維持されて現在に至っています。
   
( 平成8年版 『航空路図誌』 より )
  札幌 (丘珠) 札幌村烈々布 (現在の札幌市東区丘珠) の地に置かれた飛行場で、札幌市内にあった元民間空港の「札幌飛行場」が旧陸軍で手狭になったために、その北東僅か 4.5km のところに新たに作られたもので、昭和17年に用地を買収して着工、19年7月に概成して第21航空基地司令部及び飛行第63戦隊が進出しました。 この時に元の 「札幌飛行場」 を 「札幌第一飛行場」、本飛行場を 「札幌第二飛行場」 と呼ぶことになり、また 「札幌新飛行場」 と呼ばれることもありました。 終戦後は米陸軍に接収されて空挺部隊等の演習場として使用されましたが、昭和27年には接収解除となり、早くも民間会社の青木航空が遊覧飛行などを行っています。 昭和29年には陸上自衛隊の丘珠分屯地 (現在の丘珠駐屯地の前身) となり、また31年には北日本航空による丘珠~女満別の、その後続いての定期航路が開設され、日本国内航空、全日本空輸、日本近距離航空、東亜国内航空などが進出ています。 この間に、昭和33年には 「札幌飛行場」 と改称、36年には公共用施設に指定され本飛行場は通称で 「丘珠空港」 又は 「札幌丘珠空港」 と呼ばれることになります。 現在では滑走路の延長問題や新千歳空港との棲み分け問題などを抱えており、今後の大きな課題となっています。
    
( 平成8年版 『航空路図誌』 より )
  札幌 (民) 札幌市北24~25条西5~8丁目にかけての地に置かれた飛行場で、当初は昭和2年に北海タイムス社の社用飛行場として開設され、昭和12年に逓信省航空局管轄の 「札幌飛行場」 となり、札幌~東京間の定期航路も開設されましたが、15年までに定期航路が廃止となりました。 昭和16年には大日本飛行協会の札幌飛行訓練所が併設され、翌17年には 「札幌飛行場」 が 「札幌飛行訓練所」 となり、陸軍教官による操縦訓練の場となると共に陸軍第13戦隊が置かれました。 その後旧陸軍の所管となり、改めて元の 「札幌飛行場」 と呼ばれるようになり、更にここが手狭になったことから近傍の丘珠に新飛行場が建設されるに伴い 「札幌第一飛行場」 と改称されました。 そして昭和19~20年に拡張工事が行われましたが、終戦までには完成に至らななかったようです。 戦後は米軍により残存航空機や施設が全て撤去されて放棄となり、現在では札幌市街地のただ中となっています。
  沼ノ端 勇払郡苫小牧町字沼端の地に置かれた飛行場で、昭和18年に着工、同年中に西側1本 (長さ 1,200m、幅 50m) の転圧式滑走路が完成し、早くも一式戦闘機「隼」の訓練に使用されたとされています。 続いて東側にT型の2本のコンクリート製滑走路 (長さ 1,500m、幅 300m) が増設され、昭和19年に完成したとされていますが、その後終戦までの運用実績は不詳で、結局航空隊も配置されなかったようです。 戦後は米軍によって滑走路など破壊後放置され、現在でも一部が工業団地や宅地などになっている他は荒地のままとなっています。
  苫小牧 戦前から、王子製紙苫小牧工場の敷地内に競馬場が置かれ、ここは旧陸軍の演習時における臨時の飛行場、そして不時着陸場としても使用されていましたが、昭和18年になって改めて飛行場設置の工事が行われ、「苫小牧飛行場」 となりました。 しかしながら、その後の運用状況などは全く不詳で、かつ昭和19年の旧陸軍及び22年の米軍の撮影写真、そして昭和19年の大日本帝国陸地測量部や昭和21年及び22年の米軍の地図でも飛行場を示したものはありません。 苫小牧飛行場としては、僅かに昭和19年に旧陸軍が作成した 『飛行場調査』 及び米軍が作成した情報資料によってその概要が判るのみです。 戦後はそのまま放置されたようで、現在では全くの市街地の中となっており、飛行場跡としてのものは何も残っていないようです。
  白 老 膽振郡白老村 (現在の白老郡白老町北吉原) の地に置かれた飛行場で、昭和18年10月に着工し、早くも2か月後の12月には完成したとされています。 別名 「敷生飛行場」 とも呼ばれており、長さ 1,200m、幅 150mの滑走路1本と小型無蓋掩体12基などを有していましたが、結局のところ終戦までの運用実績などは無かったようです。 戦後はそのまま放置されて、現在でもほとんどが荒地のままとなっています。
  室 蘭 昭和18年に室蘭市八丁平の地に置かれていた市営の 「室蘭市飛行場」 を陸軍が転用、拡張し、19年9月に 「室蘭飛行場」 として完成したとされています。 終戦までに、札幌 (丘珠) 飛行場に駐屯する一式戦闘機 「隼」 や九七式戦闘機が分派されていたとされていますが、米軍による室蘭空襲などの際にも活躍の機会は無かったようです。 戦後は一時米軍に接収されましたが、昭和22年には解除となりました。 その後、市などはローカル空港としての利用を企図したものの結局実現せずに終わり、現在では全くの住宅地の中となっております。
  八 雲 昭和18年6月に着工されて11月には一旦完成したとされていますが、その後拡張工事が行われて19年11月に完成したとされています。 終戦までの運用実績などは不詳ですが、昭和20年に米軍の空襲により使用不能となったとされています。 戦後は米軍の手によって一旦は廃棄され、農地として払い下げられたものの、朝鮮動乱を受けて昭和27年に米空軍により現在も残る新たな 「八雲飛行場」 が建設されました。 そして昭和33年に返還され、防衛庁 (当時) に移管されて航空自衛隊第2航空団の管轄となりましたが、57年には三沢基地の 「八雲分屯基地」 となって高射隊が配置されました。 現在でも滑走路などは維持されており、飛行場ではなく、固定翼機の場外離着場として指定されています。






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最終更新 : 14/Feb/2021