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南鳥島航空基地 |
南鳥島への航空基地設置の計画は意外と早く、昭和9年度に島民引き上げにより無人となった同島の現地調査を行った上で速やかに完成させることが決定されており、昭和11年には特務艦 「野島」 で資材を輸送したことなどが知られています。
しかしながら、この時を含み、旧海軍により建設された南鳥島の飛行場がどの様なものであったのかは不詳ですが、大戦中の南鳥島の姿については米軍史料及び写真により推察することが可能です。
旧海軍においては、南鳥島航空基地を作戦上の秘匿名称として 「53基地」 と呼び、大戦中期には横須賀航空隊の南鳥島派遣隊の一式陸攻を常駐させて哨戒任務などに当たっていることが知られています。
ただし基地管理部隊についてはハッキリしていません。 本基地を原駐とする常設の航空隊は置かれていなかったことから、建設時からは横須賀鎮守府を管理部隊とし、必要に応じて横須賀航空隊から所要の人員・機材が派出されたものと考えられます。 そして、昭和18年11月15日に南鳥島警備隊が基地管理部隊に指定され、次いで昭和19年7月10日付で南方諸島航空隊 (乙航空隊、新編)) が指定されましたが、昭和20年4月30日付で基地管理部隊が削除されていることから、この時点以降旧海軍においては航空基地としては放棄されたものと考えられます。
なお、南鳥島は終戦時までに横須賀鎮守府隷下の南鳥島警備隊及び陸軍の南海第二守備隊により南鳥島防衛隊を編成して米軍の来航に備えたものの、言わずがままの全くの絶海の孤島であり、終戦までに度重なる米軍機の空襲を受けて多数の戦死傷者を出し、かつ補給が途絶えたことにより南方占領諸島と同じく飢餓状態に置かれて相当数の餓死者も出しながら、終戦により米軍に引き渡されています。
戦後は米国の執政下に置かれて米海軍・沿岸警備隊などが駐留、高さ400mのロラン塔やタカンの基地局が設置されしましたが、その間の経緯・変遷などの詳細については明らかでありません。 旧海軍時代に2本あった滑走路 (1300mx300m、1200mx200m) が1本 (1372mx44m) となっていますが、これの状況についても不詳です。 また、飛行場は米軍の軍用でしたが、太平洋横断の民間航空機の給油用としても利用されたものの、滑走路が短いために使用可能機種は限定されていました。
昭和43年の小笠原諸島返還後に、南鳥島は全島の約半分を海上自衛隊、林野庁及び大蔵省 (当時) が管理し、ここに硫黄島航空基地分遣隊 (平成3年に硫黄島航空基地隊に改編) の南鳥島航空派遣隊が置かれましたが、当初は庁舎・宿舎及び厚生施設などは元米沿岸警備隊のものを利用したとされています。 また、気象庁の観測所及び米沿岸警備隊のロラン局が置かれそれぞれの維持管理・運用要員が駐在しています。 (ロラン局は平成5年に海上保安庁が業務を引き継ぎましだが、平成21年にロラン局廃止)
南鳥島航空基地は、現在は海上自衛隊第4航空群の管理下にありますが、民間航空機 (滑走路長のため機種限定) の非常用離発着にも利用可能です。
1943年 (昭和18年) 9月の米海軍艦載機の南鳥島空襲時。 (米海軍NHHCより) | 同 左 | |
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最終更新 : 19/Mar/2023