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父島航空基地



父島航空基地は、昭和12年頃から建設工事が行われ、昭和14年4月1日に父島航空隊の開隊に伴い設置されたもので、二見港を挟んで、北側の大浜 (大根山) 地区に水上飛行場が、そして南側の洲崎地区に陸上飛行場がありましたが、後者の滑走路が短かったこともあって、当初は陸上機の定数が無かったことから水偵のみの運用で始まり、陸上飛行場は硫黄島などへの中継用及び避退、不時着用を主として運用されたようです。  

父島航空隊の状況の概略は次のとおりです。

昭和14年 4月 1日
父島航空隊開隊、横須賀鎮守府に所属
昭和16年10月 1日 第五艦隊第七根拠地隊に編入
昭和17年 5月21日 第五艦隊父島根拠地隊に編入
  同    9月15日 横須賀鎮守府父島特設根拠地隊に編入
昭和19年12月15日 第九〇三航空隊に統合

少なくとも、昭和17年9月15日に父島特設根拠地隊に編入されて以降は、父島航空隊に九〇一空 (千歳) の陸攻や九三一空 (佐伯) の艦攻の硫黄島派遣隊がその指揮下に置かれましたが、父島航空基地の陸上飛行場で運用されることはなかったとされています。

また、硫黄島に派遣された九〇一空 (陸攻) 及び九三一空 (艦攻) の派遣隊は父島航空隊が九〇三空に統合されるまでの間はその隷下に置かれ、硫黄島の第一及び第二飛行場は作戦上 「52基地」 と呼ばれて指揮官は派遣隊の先任者がなっております。

父島航空隊が統合された九〇三空の状況は次のとおりです。

昭和19年12月15日   陸攻、艦攻、水偵の各隊をもって館山航空基地を原駐として開隊
     同   横須賀鎮守府に所属、司令官を置く
     同   館山航空基地に本部を置き、大湊、八丈島、筑波、父島、浜島、串本、小松島などの各航空基地に分派
昭和20年 5月15日   大湊警備府に所属替え
     同   大湊航空基地に本部を置き、稚内、厚岸、美幌、山田湾などの航空隊に分派

したがって、昭和20年5月15日以降は、本基地に常駐する航空部隊はありませんでした。

また、昭和19年12月15日付で父島航空基地の基地管理は父島航空隊から第九〇三航空隊に、そして昭和20年5月15日付で父島方面特別根拠地隊が指定されています。



  
1915年の日本地図に基づく1943年の米軍地図より父島付近。 水・陸2つの父島航空基地の記載はありません。    現在の衛星写真から、周辺航空基地との関係。 黄色文字は陸上機用、緑色文字は水上機用です。
(元画像 : Google Earth より) 
   
1944年の米軍史料より、父島の旧海軍施設概要。    
   
1944年の米海軍史料より父島二見港周辺写真。    
   
1958年の米軍地図より。 水上機用も陸上機用も航空基地の記載はありません。    





  水上飛行場


昭和14年4月1日の父島航空隊新編時には水偵隊のみで、定数は当初水偵半隊 (4機)、後に同1隊 とされていました。 実際の配備は零式三座水偵x4~6機程度であったようです。

基地には水偵用の滑りと駐機場を始め、格納庫などの施設が整備されていたようです。

終戦後は小笠原諸島が米国の管轄下に置かれ、当該地区は米軍が管理するところとなりましたが、特に水上飛行場として使用されることはなく、旧海軍時代の建物などは全て撤去されたようです。

昭和43年の小笠原諸島返還後は、海上自衛隊の小笠原基地分遣隊が置かれ、滑りが飛行艇用に改修され庁舎などが新設された他、急患輸送や災害派遣など必要に応じて飛行艇が配備されてきています。

なお、一説によると、水上飛行場地区の北側、大村地区 (現在の東町) に水上機用の滑りと格納庫があったとされており、昭和43年 (1968年) の国土地理院の航空写真及び国土基本図では水上機発着所とされる滑りがありますが、大戦中の米海軍撮影の写真及びそれの解析に基づく史料及び旧海軍史料にはありません。 おそらく戦後米国 (米軍) によって増設されたものではないかと考えられますが、詳細は不明です。




  
1944年のの米軍地図より水上飛行場付近のレイアウト図。    現在の衛星写真から、水上飛行場付近。
(元画像 : Google Earth より) 
 
1944年の米軍史料より水上行場付近の写真。 (上が南南東)   国土地理院の電子地図から当該部分。
 
1945年の米海軍史料より水上飛行場付近の写真。 (上が南南西)   衛星写真による現在の状況。 滑りは補修されて残っていますが、建物類は替わってしまっています。
(元画像 : Google Earth より)
   
1945年3月米海軍撮影の航空写真より。    
 
昭和43年の国土地理院国土基本図より。 大村地区に水上機発着所とされる滑りが描かれれております。   1968年の国土地理院の航空写真より。
   
    昭和53年の海図第1082号より。 大村地区に滑りが描かれております。



 
1944年9月米艦載機空襲時の水上飛行場付近。 (米海軍NHHCより)  



  陸上飛行場


昭和14年に父島航空隊が編成された時には、父島航空基地には既に水上基地と陸上基地の2つが置かれていましたが、当初は内令による父島航空隊の編成では水上偵察機のみの定数が定められており、陸上機については定数はありませんでした。

滑走路は旧海軍の終戦時の史料では1000mx400m、1945年の米軍史料では2750フィートx950フィート (約840mx290m) とされており、旧軍時代から陸上機用としては滑走距離が短いとされているものの、元々からいわゆる “滑走路” と呼ばれるものは無く、敷地全体が転圧されてその主要部を使用したものであったことは、残された史料や写真などから明らかです。

そして、少なくとも昭和18年の10月から19年7月の間は、内令によって艦上攻撃機x半隊が定数として定められており、これに基づき実際にはどれだけの陸上機が配備され、父島及び指揮下にあった硫黄島の何れで運用されたのかはなどは不詳ですが、本基地は大戦期後半には硫黄島への中継用や避退、不時着用としても使用されたとされており、これは昭和20年の米軍撮影の写真からも多数の航空機の存在 (可動か損傷かは不明) が確認できることからも明らかです。

戦後は米軍の管理下に置かれ、非常用陸上飛行場とされておりました。 ただし、米軍でも滑走路はコンクリート舗装などが施されておらず、ローラー (機力) による転圧であったと考えられます。 この部分の滑走路と思われるものが昭和43年の航空写真でも残されていますが、少なくともこの時点で当該部分以外の航空基地跡のほとんどは既に木々に覆われており、米軍による実際の使用状況などは不明です。

小笠原諸島返還後は、旧海軍の陸上基地跡であるこの米軍による陸上基地は放棄され、その後自動車運転場が置かれ、その一部は現在でも残されており、コンクリート舗装らしい部分も見えます。

現在ではこの自動車運転場も放棄され、元の飛行場跡全体は林に覆われ、一部は粗大ゴミが集積され放置された状況となっております。

東京都は父島諸島への航空便設定のための飛行場設置を模索しており、ここの旧海軍陸上飛行場跡の再開発がその第一候補とされていますが、空港新設にはそのままでは取れる滑走路長が短すぎることから海岸部の埋め立てなどについては自然環境問題などがあり苦慮しているとされています。

しかしながら、父島諸島での空港建設には基本的にこの旧海軍の航空基地跡しかなく、更に粗大ごみの放置・集積場として放置されている現状においては、何の環境問題なのかと考えされられるところではあります。



  
1944年の米軍史料より陸上飛行場付近のレイアウト図。    現在の衛星写真から、陸上飛行場付近。
(元画像 : Google Earth より) 
 
1945年の米軍史料より陸上飛行場付近の写真。   国土地理院の電子地図から当該部分。
   
1945年の米海軍撮影の陸上飛行場付近の写真。 (上が東北東)    
 
1968年の国土地理院の航空写真より。   昭和43年の国土地理院の国土基本図より。
   
    昭和53年の海図第1982号より。 滑走路跡などは描かれておりません。



1944年7月米艦載機撮影の陸上飛行場付近遠景。 (米海軍NHHCより)






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最終更新 : 05/Mar/2023