サイト・トップ頁へ 旧海軍航空基地一覧へ


ツラギ航空基地 (ガブツ水上機基地)



ツラギ航空基地は、建設中であった旧陸軍の飛行場の占領を目指したガダルカナル島への米軍の侵攻作戦の一貫として行われた、昭和17年8月7日ツラギ島及びガブツ島等に対する空襲により、当時ここに進出していた横浜航空隊本隊が壊滅したところとして知られています。

このツラギ航空基地は、ツラギ島ではなく、ガブツ (Gavutu) 島、タナンボゴ (Tanambogo) 島及びガオミ (Gaomi) 島の3つの小島で構成される群島に置かれた水上機基地のことを 「ツラギ航空基地」 と呼んでいます。

当該基地は、1939年頃に豪州空軍 (RAAF) が建設して飛行艇の運用が開始され、開戦時には2個飛行隊が置かれて周辺海域の哨戒行動を行っていたとされています。

なお、豪州空軍及びニュージーランド空軍は、このツラギ基地の他、ツラギ島及び湾対岸のフロリダ島 ハラボ(Halavo) 湾にも水上機基地を設置したとされていますが、詳細は不詳です。

開戦後の戦況に伴い、米豪分断を企図する旧海軍によるフィジー・サモア (FS) 作戦とポートモレスビー (MO) 作戦に合わせ、旧陸軍によるニューギニア侵攻とが計画され、ガダルカナル島に旧陸軍の陸上機基地、そしてまさにその対岸のガブツに旧海軍による周辺海域の哨戒のための水上機の基地が設置されることになりました。

これにより、昭和17年5月5日に空爆実施に続き、呉鎮守府の第3特別陸戦隊によりツラギ島及び本基地周辺の諸島を占領し、同隊の一部及び第14設営隊などが駐屯して本基地を復旧、当時ラバウルに進出していた横浜航空隊がここへ展開しました。

横浜航空隊は、開戦に備えて昭和16年9月にヤルートへ進出していましたが、開戦とともに主として内南洋方面で作戦を実施し、昭和17年2月にはラバウルへ進出、その後第11航空艦隊第25航空戦隊に編入され、ショートランド経由、昭和17年5月にツラギへ進出したものです。

そして、前述のとおり8月7日の早朝、出撃準備中に米艦載機の奇襲を受け、飛行隊は壊滅 (米側の戦果記録では7機炎上)、引き続く艦砲射撃により基地施設は破壊され、航空隊司令以下の残った飛行隊員及び地乗員は駐屯する呉第3特別陸戦隊の兵員と共に地上戦に備えますが、侵攻してきた米海兵隊とは装備の違いもあって多勢に無勢の状態で、9日にはツラギ島と共に占領されました。

米海兵隊による占領後は、米海軍によって基地機能が修復・拡張され、水上機基地として使用されたとされています。 また、旧海軍も昭和18年6月頃までは数次にわたり本基地に対して空襲を行いましたが、連合軍側の反撃もありいずれも大きな成果は挙げられなかったとされています。

それにしても、如何に開戦後の日本側の攻勢の状況下にあったとしても、旧海軍が周辺に戦闘機の援護が得られる陸上航空基地などが無い全くの突出したこのような最前線に水上機用の基地を設置し、大艇の部隊を進出させるなどは、戦略・戦術上の無理 (といよりむしろ暴挙) があったと言わざるを得ないでしょう。

終戦後は連合軍はそのまま放棄したようで、基地施設跡や飛行艇などの残骸があちこちに残ったままになっているようです。



   
    ツラギ航空基地の周辺旧海軍基地との位置関係
( 元画像 : Google Earth より )
 
1998年版のONC (Operational Navigation Chart) より基地の位置関係。 1998年版のTPC (Tactical Pilotage Chart) より基地の位置関係。
 
1942年の米軍による偵察写真の解析結果   衛星写真から現在のツラギ航空基地跡付近
( 元画像 : Google Earth より )
   
1942年の米軍史料より。 同上による基地レイアウト  
   
1942年米軍占領時に鹵獲された旧海軍の係留位置表示板。  
   
タナンボゴ島山頂よりガオミ島方向を望む。 赤丸が指揮所(跡)の櫓。 (撮影時期不詳)  
   
米海軍公式写真より、1942年8月の空襲及び艦砲射撃後のタナンボゴ島。 上掲写真の反対方向上空より。  



1942年8月7日空襲下のツラギ航空基地 (米海兵隊公式戦史より)
 
同上 (米海軍公式写真より) 同 左
 
同 上 同 左
出征時の記念写真と思われる呉第3特別陸戦隊 (米海兵隊公式戦史より)
ツラギ航空基地における戦い (米海兵隊公式戦史より)






サイト・トップ頁へ 旧海軍航空基地一覧へ 頁トップへ

最終更新 : 11/Jul/2017