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幌筵航空基地(第一、第二、第三) |
( 画像クリックで占守島及び幌筵島所在の旧陸海軍航空基地の概要ページへジャンプします )
(第一) 幌筵航空基地は幌筵島最南端の武蔵湾に面した岬に置かれ、その所在地から通称 「武蔵基地 (飛行場)」 と呼ばれ、V字型に交差する2本の滑走路と極めて充実した設備を有しており、旧海軍の北方作戦のための主要な前進作戦基地とされていました。
本基地は昭和9年に設置が決定され、11~12年頃に着手して13年末までに完成の計画でした。 そして昭和12年には不時着陸程度には使えるようになっていたとされていますが、昭和16年8月の段階では滑走路、送信所、弾薬庫、燃料庫などは完成していたものの、兵舎は約200名収容可能な仮のもの程度であり、格納庫も無かったとされています。
開戦時には大湊鎮守府隷下の千島防備隊 (指揮官:第1駆逐隊司令) の保守員十数名が置かれていましたが、昭和18年1月に千島方面特別根拠地隊 (9月に千島方面根拠地隊となる) が管理部隊に指定されて、次いで同年10月には第四十一航空基地隊、翌年昭和19年10月には北東方面艦隊の新設によりその隷下の第十二航空艦隊が管理部隊となりました。
本基地が本格的に使用され始めたのはアリューシャン作戦のためで、その後引き続き北方作戦に使用され、このため終戦時までには基地機能が次第に拡張されて幌筵及び占守方面への根拠地となり、特に、昭和18年5月に第二十四航空戦隊 (五五二空、二〇一空) が司令部と共に進出して作戦し、北方作戦における航空部隊の主要運用拠点となりました。
ただし、ここを原駐基地とする航空隊はなく、作戦基地として終始したこともあって、旧海軍の関係史料は昭和18年~19年にかけての北方作戦時以外はほとんどなく、それ以外の詳しい経緯や運用状況などについては不詳です。
現在知られている本基地のレイアウトは昭和18年の旧海軍史料にあるものの他、1951年作成の米軍史料による1945年段階とされるデータと旧海軍が1944年にした撮影とされる基地全体写真が1枚で、これらにより概略のところを掴むことができます。
終戦直後に旧ソ連軍の千島・樺太侵攻により幌筵島も占領され、第一幌筵基地は1947年頃までは爆撃機の基地として使用されたとされています。 その後の状況は不明ですが、1961年の米軍地図では幌筵島所在の航空基地の内で本基地のみはまだ運用されていたとされており、その後(おそらく旧ソ連崩壊時)放棄されたようです。
残念ながら現在のところ当該地域の衛星写真の解像度が非常に悪いのですが、これを見る限りでは、2本の滑走路跡を中心に放棄時当時の姿がかなり残っているようです。
( 写真収集中 ) | ||
第二幌筵航空基地は開戦後に整備されたもので、第一幌筵基地の北東約31km、擂鉢 (すりばち) 湾に面した擂鉢漁場と言われる集落に隣接した地に置かれ、その所在地から通称 「擂鉢基地 (飛行場)」 と呼ばれました。
開設時期や経緯などの詳細は不明ですが、昭和18年9月には北方作戦のために第二十四航空戦隊の派遣隊が本基地に進駐し、「第一〇九基地丙」 の名称により 「同甲」 たる第一幌筵基地と共に運用されていますが、その後の状況については不詳です。
なお、昭和19年2月の内令により、第四十一航空基地隊が本基地の他第一、第三幌筵基地及び第一、第二占守基地と共に管理部隊に指定され、同年10月には第十二航空艦隊が管理部隊となっています。
終戦後は旧ソ連も航空基地としては使用しなかったとされ、そのまま放置されたものと考えられます。
衛星写真の解像度が非常に悪いのですが、これで見る限りでは、現在では元の2本の滑走路跡のうちコンクリート敷とされるNW/SEの1本のみが何とか判別できます。
1951年の米軍史料から、1944年旧海軍撮影とされる第二幌筵基地全景写真 | ||
第三幌筵航空基地は第一幌筵基地の北北東約40km、加能別湾大後崎西側のオホーツク湾に面した地に置かれ、その所在地名から通称 「加能別基地 (飛行場)」 と呼ばれていました。
開戦後になって第一及び第二幌筵基地に続いて両者の予備的な位置づけの基地として建設されましたが、終戦までに滑走路の状態も不十分なものであり、かつ格納庫なども整備されなかったこともあって、ほとんど使用されなかったようです。
なお、昭和19年2月に第四十一航空基地隊が、次いで10月には第十二航空艦隊が管理部隊に指定されています。
終戦後も旧ソ連軍によって飛行場として使用されることはなく、そのまま放棄されたとされています。
( 写真収集中 ) | ||
最終更新 : 01/Jul/2018