サイト・トップ頁へ 旧海軍航空基地一覧へ


茂原航空基地



茂原航空基地は、昭和16年7月に策定された 「国土防衛作戦計画要綱」 に基づき千葉県長生郡東郷村 (現茂原市東郷) に建設されたとされていますが、旧海軍史料による航空基地一覧では、元々は夜間設備を備えた中攻基地として計画されたとされ、一覧表上では開戦前に整備されたの航空基地としては033番の土浦と035番の八丈島の間の034番にリストアップされています。 したがって、旧海軍の計画上では昭和16年よりはもっと早い時期であったと考えられます。

実際の建設は、昭和16年9月の用地買収後に開始され、基地が概成した昭和17年12月に 第五五二航空隊 が本基地を原駐として開隊されましたが、翌18年7月にマーシャルに進出、再び茂原に戻ることはないまま昭和19年3月にテニアンで解隊となっています。 同航空隊の開隊後の状況の概略は次のとおりです。

昭和17年12月 1日 茂原航空基地にて開隊 (艦爆)
    同 第二十四航空戦隊 (第十一航空艦隊) に編入
昭和18年 5月18日 第二十四航空戦隊は第十二航空艦隊所属となる
昭和18年 7月 1日 第二十二航空戦隊 (第十一航空艦隊) に編入
    同 マーシャルに進出
昭和18年11月 1日 第二十二航空戦隊は第四艦隊所属となる
昭和18年12月 7日 テニアンに転進
昭和19年 3月 4日 解隊

そして、昭和18年9月15日に佐伯空艦爆隊を主体とする 第五〇二航空隊 が松島基地を原駐として本基地で開隊し、同日この第五〇二航空隊が本基地の航空基地管理部隊として指定されています。 同航空隊の開隊後の状況は次のとおりです。

昭和18年 9月15日 佐伯空艦爆隊を主体として茂原航空基地にて開隊 (艦爆、原駐松島基地)
    同 第五十一航空戦隊 (第十二航空艦隊) に編入
    同 茂原航空基地の管理部隊に指定
昭和19年 2月20日 以降、北海道方面に転進
昭和19年10月 1日 解隊

また、昭和18年10月1日に 第三二一航空隊 (鵄) が本基地を原駐として開隊しましたが、翌19年2月にマーシャルに進出し、同年7月に解隊となるまで本基地に戻ることはありませんでした。 同航空隊の開隊後の状況の概略は次のとおりです。

昭和18年10月 1日 茂原航空基地にて開隊 (夜戦)
    同 第一航空艦隊に編入
昭和19年 2月 1日 第六十一航空戦隊に編入
    同 マリアナに進出、あ号作戦に参加
昭和19年 7月10日 解隊

同じく、昭和18年11月5日に 第三〇一航空隊 (艦戦) が本基地を原駐として横須賀基地で開隊しましたが、一度も本基地に戻ることはないまま、昭和19年7月10日に硫黄島にて解隊となっています。

その他、昭和17年9月に鹿児島基地を原駐とする 第二五二航空隊 (元山航空隊戦闘機部隊を主体) が館山で開隊し、内南洋方面に進出後マーシャルで壊滅状態となったことから本土に戻って再建を図ることとなり、昭和19年2月に館山基地で再建されましたが、同年4月の空地分離により航空隊本部と戦闘飛行隊4個の編成となり、本部は館山基地に置かれておりましたが昭和19年8月10日以降本基地に転進、また所属する第三航空艦隊により状況に応じて航空隊隷下の戦闘飛行隊も進出しております。

そして、本基地を原駐として開隊した第五五二航空隊がマーシャルに進出して以降、本基地の航空基地管理部隊は、次の通り指定されています。

昭和18年 9月15日 第五〇二航空隊
昭和19年 3月 9日 館山航空隊
  同   7月10日 関東航空隊 (乙航空隊、第三航空艦隊所属)
  同  10月15日 第三航空艦隊
昭和20年 7月25日 関東航空隊 (乙航空隊、第三航空艦隊所属)


(注) : 上記のように航空基地管理部隊が指定されており、茂原市教育委員会を始めとしてネット等で言われているような、第二五二航空隊が本基地の基地管理部隊となったことはありませんし、また同航空隊の原駐基地となったことはありません。

 そして、昭和19年10月以降に同航空隊本部及び隷下の4個戦闘飛行隊のいずれかが状況により本基地に適宜進出して使用しましたが、甲航空隊として乙航空隊の関東航空隊、あるいはその上級部隊である第三航空艦隊の指揮下で運用されておりますので、本基地が二五二空の基地となったわけではありません。

 それに、二五二空が 「茂原航空隊」 と言われたことはありませんし、もちろん本基地を原駐とする常設航空隊たる 「茂原航空隊」 と言うものが存在したこともありません。

本基地は、当初計画は中攻基地でしたが、近傍に木更津基地があることと、開戦後は中攻部隊は外地に進出したこともあり、開戦後になった建設開始当初は艦爆基地、次いで本土空襲が本格的になるに伴い艦戦基地として、順次整備方針が変わったと考えられます。

滑走路は、コンクリート敷きの長さ1200m x 幅80mの南北に走るメインの滑走路1本の他に、この両端に東西に走る1200m x 35mと1200m (500mから延長工事中) x 60mの2本が建設され、更に終戦時までに南北のメイン滑走路の東側に2本目が建設途中でした。

飛行場地区は、この滑走路を中心にしてその西側に格納庫x6棟とエプロン、ここから滑走路に通じる直線の誘導路、そして各種のショップなどが整備され、更にその西側に川を挟んで管理地区が置かれていました。

また、昭和19年からは首都をメインとする本土防空と米軍本土上陸に備えて、本基地は迎撃用の戦闘機基地としての強化工事が行われ、特に飛行場地区の北側に誘導路に沿って掩体壕が並ぶ掩体地区などが建設されたとされています。

終戦時に本基地に残存していた航空機は、第二五二航空隊の戦闘第三一三(S313)、同第三一六飛行隊(S316)を主体とし、米軍への引渡しの史料によると次の通りの総計85機であったとされています。

零式艦上戦闘機二一型 x 3機、 同五二型 x 73機、 彗星艦上爆撃機四二型 x 1機、 零式練習戦闘機 x 2機、 白菊機上作業練習機 x 2機、 九三式中間練習機 x 4機、 総計 85機

終戦後は占領軍の米軍に接収されて一切が引き渡されましたが、基地そのものが米軍使用となることはなく、滑走路などを除き海外などからの引揚者の入植地となりました。 この滑走路地区が残されていたことから、朝鮮戦争時には米軍の、その後は防衛庁・自衛隊の飛行場としての計画がなされたとされますが、元主権者及び彼らの意向を受けた市などの強い反対のために実現せず、結局滑走路なども市によって破棄・撤去され、飛行場地区の西側及び管理地区は工場など、飛行場地区の東・南側及び北側の掩体地区は主として農耕地や宅地となりました。

衛星写真で見る限り元の基地西側は工場・公共施設などとなっていますが、北・東・南側は住宅地が拡がってきており、現在ではここが旧海軍の航空基地跡であったことを窺わせるものは元のメイン滑走路跡に作られた長い直線の道路のみであり、後は基地北側の掩体地区に残る幾つかのコンクリートの掩体壕が遺構巡りファン達の名所となっているようです。



  
1945年の米軍地図より基地付近。    現在の衛星写真から、周辺の海軍航空基地との関係。 黄色文字は陸上、緑色は水上機、赤色は両用です。
( 元画像 : Google Earth より ) 
 
昭和19年の内務省地理調査所による5万分の1地形図より。   現在の状況地図。
( 元画像 : Google Map より )
 
終戦時の旧海軍史料にある茂原防空砲台位置略図による基地レイアウトの概要です。  (上が西方向)   国土地理院の電子地図から当該部分。
   
1945年の米軍史料より茂原基地のレイアウト図 (上が西北西方向)    
 
1945年の米軍史料より。 2本目のメイン滑走路が1本目の東側に建設中であることが判ります。 (上が南東方向)   現在の衛星写真による当該地区の状況。 ここが航空基地跡で窺わせるものは、メインの滑走路跡を走る直線道路以外にはほぼありません。
( Google Earth より )
   
1947年の米軍撮影の航空写真より。 まだほぼ全体的には終戦直後の状態を保っています。    
   
1948年米軍撮影の航空写真より飛行場地区。滑走路は破壊され、6棟あった格納庫なども撤去されていますが、地区全体のレイアウトは良く残っています。    
 
1952年米軍撮影の航空写真より。まだ基地全体のレイアウトは良く残っており、米軍、その後自衛隊が使用を検討したのもうなずけます。   1952年の米軍地図でもまだ飛行場として記載されています。



( 写真収集中 )
     






サイト・トップ頁へ 旧海軍航空基地一覧へ 頁トップへ

 最終更新 : 27/Feb/2022