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横浜航空基地 (付:横浜水上飛行場) |
横浜航空基地がいつどのような経緯で横浜市富岡町 (現在の横浜市金沢区富岡東) に開設されたのかは不明ですが、昭和11年10月横浜航空隊 (浜空) の開隊に伴いここがその原駐基地とされ、以後大艇用の中堅運用基地として整備され、使用されました。
横浜航空隊の開隊以降の状況は次のとおりです。
昭和11年10月 1日 | 横浜航空隊開隊 (大艇) |
同 | 横須賀鎮守府に編入 |
昭和15年11月15日 | 連合艦隊第四連合航空隊に編入 |
昭和16年 1月15日 | 第四艦隊第二十四航空戦隊に編入、以後、開戦に伴い内南洋方面作戦に従事 |
昭和17年 4月 1日 | 第十一航空艦隊第二十五航空戦隊に編入 |
昭和17年 8月 7日 | ツラギにおいて本隊全滅 |
昭和17年10月 1日 | 横浜航空基地において再編 (大艇) |
昭和17年11月 1日 | 第八〇一航空隊と改称 |
昭和18年 5月18日 | 第十二航空艦隊第二十七航空戦隊に編入、同隊の一部を北千島に派出 |
昭和19年 7月10日 | 第三航空艦隊直属 |
昭和19年 9月20日 | 第八五一航空隊 (元東港空) の解隊に伴い全大艇を吸収 |
昭和20年 1月 1日 | K七〇三飛行隊 (中攻) 及びT三〇二飛行隊 (瑞雲) を加える |
同 | 海上護衛艦隊直属 |
昭和20年 2月11日 | 第五航空艦隊附属 |
昭和20年 4月25日 | 大艇隊及び他部隊の水偵隊を以て新たに詫間航空隊を編成 |
なお、昭和19年9月以降 (時期不詳) 八〇一空の大艇隊は詫間航空基地に進出、横浜航空基地は補給基地として機能したとされています。 そして詫間空の新編以降についての横浜航空基地の状況については詳細は判りません。
また、元々は佐世保航空基地を原駐基地とする第四五二航空隊 (旧五空) の水偵隊が、18年11月に北千島から本基地に移駐し、20年1月の同隊解隊まで所在しました。
(注) : 昭和18年1月7日の 「航空基地管理ニ関スル件」 (内令11号) により松島、木更津、横浜、豊橋の4基地が第1航空基地隊の管理所掌とされています。 しかしながら、同隊の初代は昭和17年6月〜同年10月まで鹿屋に、第2代は昭和18年8月〜19年2月まで香取に置かれていたとする資料もあり、これとは時期が合いません。 また、昭和20年2月の内令第143号による改訂段階では本基地の管理部隊は八〇一空となっております。 この間の本基地管理の変遷及び第一航空基地隊の状況についての詳細は不明です。
終戦後は、土地・建物の総てが米軍に接収され、米陸軍の倉庫、荷揚場、射撃場などに使用されまたしが、このため比較的長い間旧態を保っていました。 しかしながら、その後は米軍もほとんど使用しなくなったためゴーストタウンのようになり、僅かに隊門付近の桜並木に当時の佇まいを感じさせるのみでした。
米軍より変換された後は、裏山は緑地公園に、庁舎地区は公務員宿舎に、そして滑り地区の大部分は現在神奈川県警の第1機動隊や音楽隊などが使用しています。 現在でも当時の第3格納庫がこの神奈川県警の敷地内に残されています。
また、基地周囲の海域は埋め立てられて巨大な工業地帯や住宅地などとなってしまい、ここがかつて飛行艇基地であったことなどは信じられないような状況となっています。
ちなみに、この基地の東側を埋め立てて造成された新興住宅地である磯子区並木の通称 “並木団地” は、海自幹部OBが多く住んでいるところとして知られています。
戦前の市販地図より基地位置図 (時期不詳) |
衛星写真から、付近航空基地との位置関係。 黄色文字は陸上機、緑色は水上機、赤色は両用です。 ( 出典 : Google Earth ) |
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昭和21年版の米軍地図から。 岬の先を埋め立て、滑り x3と格納庫 x3を主体とするエプロン地区と、それに続く手前の本部庁舎などの管理地区を造成しました。 | 現在の状況地図。 元々の岬の山の部分は総合公園となっています。 (周辺広域地図表示) |
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昭和20年の米軍史料より基地レイアウト図 | 国土地理院発行の2万5千分の1地図より当該個所。 全くの陸地の中となってしまいました。 | |
古い部内資料にある横浜航空基地の敷地のラフ・スケッチ。 | ||
昭和22年の米軍航空写真から。 第1格納庫は既に無く、第2格納庫も解体中ですが、その他はほぼ終戦時のままを保っています。 | 現在の衛星写真。 第3格納庫はまだ現存しておりますが、それ以外の建物はほぼ跡をとどめません。 (出典: Google Earth ) |
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昭和24年の米軍航空写真から。 この段階でもほぼ旧海軍時代を保っているといえます。 | 上の写真の旧エプロン・格納庫地区の拡大。 左の空き地にエプロンと旧第1格納庫跡の地肌がそのまま残っています。 また、現存する旧第3格納庫は現在でも県警第1機動隊が使用しています。 | |
上の写真の範囲をもう少し広げたもの。 周囲の状況からは、ここが飛行艇基地であったとは信じられないくらいです。 |
(写真収集中) | ||
(付) 横浜水上飛行場
ここは本来は海軍の施設ではありませんが、横浜航空基地とは切っても切れない関係にありますので、併せて取り上げます。
横浜水上飛行場は、昭和14年に大日本航空横浜支所用として横浜市の根岸海岸沖を埋め立てて造成したもの (現在の横浜市磯子区鳳町) で、昭和16年に完成して同社の南洋定期便用として使用されたものです。 ここには関連会社の他、中央航空研究所なども置かれていたとされています。
大日本航空は戦時中は海軍に徴用されて南洋方面への輸送に従事したほか、この飛行場も旧海軍の大艇の輸送・連絡便用としても使用されました。
横浜航空基地とは根岸湾を挟んで対岸の目と鼻の先にあり、また同社が海軍と同じ 「九七式飛行艇」 を使用していたことから、同社の整備施設は海軍にとっても大変に都合が良かったと考えられます。
特に根岸という場所から、要人などの輸送の際には横浜航空基地よりは遙かに便利であり、海軍としては飛行艇の運用については同基地との一体のものとして考えていたと思われます。
なお、当時の関係者の間では、横浜航空基地を 「富岡」、この横浜水上基地を 「本牧」 と呼んで区別していたと聞いています。
終戦後は米軍に接収され、航空写真を見る限りでは物資などの陸揚げ、保管施設として使用されたものと考えられますが、詳細は判りません。
現在では、東側及び南側が大規模に埋め立てられて一大工業地帯の一部となり、元の敷地は大部分が民間輸送会社が使用し、残余は隣接する製油工場の一部となっています。 施設としては当時を偲ぶものは全くなく、僅かに西側に残る堀割の護岸ラインのみが昔の敷地跡を示すものとなっています。
昭和21年版の米軍地図から。 岬の先を埋め立てた、エプロンx3と格納庫x3を主体とする滑り地区を造成しました。 | 現在の状況地図。 大部分は民間輸送会社に、その他は精油工場の敷地となっています。 (周辺広域地図表示) |
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国土地理院発行の2万5千分の1地図より当該個所。 東及び南側が大規模に埋め立てられ、当時の敷地は西側堀割の線が残るのみです。 | ||
昭和22年の米軍航空写真から。 米軍が使用中のためほぼ旧態を保っています。 | 衛星写真から。 当時を偲ぶものは全く見受けられません。 (元画像 : Google Earth ) |
(写真収集中) | ||
最終更新 : 29/Apr/2018