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鹿児島航空基地 (付:天保山水上基地)



鹿児島航空基地は、元々は昭和7年に鹿児島県鹿児島市鴨池に市営の水陸両用飛行場として建設されたもので、鴨池飛行場と呼ばれていました。 すでに昭和13年頃から旧海軍の実用機基地としての使用も始まったようですが、昭和18年4月に鹿児島航空隊が置かれるまでの状況についてはよく判りません。 鹿児空開隊後の状況の概略は次のとおりです。  

昭和18年 4月 1日
    同
    同
昭和18年10月 1日
昭和20年 3月 1日
昭和20年 7月10日
鹿児島航空隊開隊
第十九連合航空隊に編入
練習航空隊に指定され、飛行予科練習生 (予科練) 教育を担当
予備学生 (飛行) 基礎教育等の担当を追加を
第二十二連合航空隊に編入
解隊

本基地において開隊・編成された特設航空隊の状況は次のとおりです。

第二六一航空隊 (艦戦)

 
昭和18年 6月 1日
昭和19年 2月16日
昭和19年 7月10日
  開隊、原駐基地 : 鹿児島
マリアナに進出
解隊

第三四三航空隊 (艦戦)

 
昭和19年 1月 1日
昭和19年 2月 1日
昭和19年 7月10日
  開隊、原駐基地 : 松山
マリアナに進出
解隊

第三六一航空隊 (艦戦)
 
昭和19年 3月15日
昭和19年 7月10日
  開隊、原駐基地 : 鹿児島
解隊

また、次の特設航空隊が本基地を原駐基地に指定されていましたが、実際にどれだけ本基地を使用したかどうかは不明です。

第二五二航空隊 (艦戦) 昭和17年 9月20日   開隊、館山航空基地で編成

なお、飛行場地区南端に滑りが設けられており一応水陸両用基地の形態となっていますが、整備関係を含めた施設の状況は不明で、またここを原駐基地とした水上機部隊はありません。 連絡・中継用として用いられた他、終戦間際には水上機特攻の前進・発進基地として使用されたようです。

終戦後は、昭和32年に鹿児島空港として飛行場の再使用が開始されましたが、それまでの状況については判りません。 昭和47年には新しい空港が現在の場所 (元の第2国分航空基地跡) に造成されて移転し、本基地跡地は住宅街などに再開発されました。

このため、北側及び南側隣接海面の埋め立てが行われたことも併せ、戦後の鹿児島空港時代を含めて飛行場としての面目は一新しており、僅かにかつての基地区画周囲の堀割にその痕跡を残すのみです。

ただ、当時の格納庫1棟だけは、戦後の鹿児島空港時代にもそのまま使用され、また引き続きそのままバス会社の車両整備庫として近代的な街並みの中に残っていましたが、最近解体されてしまったようです。



 
戦前の市販地図より基地位置図
(年代不詳)
  付近航空基地との位置関係。 黄色文字は固定翼、緑色は水上機用です。
(元画像 : Google Earth より )
   
終戦時の旧海軍史料から鹿屋航空基地のラフな位置図。    
   
海自の古い部内資料に掲載されている基地のラフ・レイアウトです。    
   
1945年の米軍史料から基地レイアウト図    
 
1945年版の米軍地図から。 飛行場地区南端に水上機用の滑りが設けられています。   現在の状況地図。 元の敷地の約2/3は住宅街となっていますが、海側は県庁やホテル、公園などが出来ています。
    (周辺広域地図表示
 
終戦時の旧海軍史料から飛行場地区のレイアウト。 上が東南方向。   国土地理院の2万5千分の1地図から当該部分。 現在の南北に走る大通りの位置は、元の滑走路より少し海岸側に外れているようです。 赤枠が航空基地、青枠が予科練地区です。
 
1945年の米軍史料から基地全体写真   衛星写真から現在の状況。 1棟残っていた格納庫は解体されており、バス会社駐車場内にその跡地が見えます。
( Google Earth より )
 
少々写りが悪いのが残念ですが、1945年米軍撮影の基地全景写真 (東側から西方を望む)   平成11年の国土地理院の航空写真から。 この時点では元の格納庫が1棟バス会社の車庫として残っています。
   
昭和22年の米軍航空写真より。 雲の影が映っているのが残念ですが、格納庫・エプロン地区や滑走路地区はほぼ終戦直後のままのようです。 ただし、予科練地区の建物はほぼ取り壊されています。    
   
昭和22年の別の米軍航空写真より。 全体のレイアウトが良く解る写真ですが、少々明瞭度に欠けるのが残念です。  



 
昭和18年の旧海軍写真から、正門付近の状況。   同左、飛行場における観兵式。






(付) 天保山水上基地



ブログで連載中の日辻常雄氏の回想録 『大空への追想』 でも出て来ますように、昭和20年頃に現在の天保山公園付近を大艇用の水上基地として利用したようです。

ただし、旧海軍の公式資料には全く出てきませんので、あくまでも当時詫間航空基地を本拠地とする八〇一空の一時的な臨時の前進基地としてのものと考えられ、どの様な基地設備があったのかなどは判りません。

また、当該地には終戦時に十二糎高角砲などを有する天保山砲台が置かれていたことが旧海軍史料に残されています。 この高角砲陣地の施設がこの水上基地の後を利用したものなのか、当時から共存していたものなのかなどは不明です。

現在では当該地は天保山公園として整備されていますが、公園の川岸側には病院やマンションなどがズラリと建ち並び、当時の地形とは全く変わってしまっています。 また一帯の海側も大規模に埋め立てられており、付近の様子も全く昔の面影はないと言えます。



   
終戦時の旧海軍史料からラフな位置図。 鹿児島航空基地との位置関係が判ります。    
 
昭和20年版の米軍地図から。 旧海軍の基地・施設を示すものは全くありません。   現在の状況地図。 一帯は大規模な埋立・造成が行われており、地形は一変しております。
      (周辺広域地図表示
 
終戦時の旧海軍史料から天保山砲台施設のラフ・レイアウト図。 向きは不明です。   国土地理院の2万5千分の1地図から。 当該地は天保山公園として整備されていますが、一帯の様子は当時とは全く異なっています。
 
昭和22年の米軍航空写真より。 既に旧海軍の基地の跡などは判別できません。   衛星写真から現在の状況。 当時の状況を偲ばせるものは全くと言ってよいくらいありません。
(出典 : Google Earth)



 
昭和20年3月10日梓隊誘導隊に対する八〇一空司令訓示。   同左、梓隊誘導隊の大艇出撃の見送り。






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最終更新 : 29/Apr/2018