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川棚 臨時魚雷艇訓練所

   

(川棚警備隊、川棚突撃隊)



川棚の臨時魚雷艇訓練所は、昭和18年12月に長崎県東彼杵郡川棚町新谷郷の地を買収し、地鎮祭や起工式などを行う間もなく直ちに工事にかかり、昭和19年3月28日の内令第479号 「臨時魚雷艇訓練所規程」 をもって海軍水雷学校の付属機関として設置され、昭和19年4月29日に開所式が行われました。

(注) : ネットや出版物などでは、水雷学校の “分校” としているものがありますが、分校ではありません。 念のため。

この臨時魚雷艇訓練所の設置により、海軍水雷学校で行っていた魚雷艇の訓練を川棚に移すとともに、訓練所要が増大する 「震洋」 (〇四艇) の搭乗員養成もここへ移されることになりました。

そして戦局の推移から、同年8月1日の軍務一機密第573号 「特設警備隊設置に関する件」 をもって 「川棚警備隊」 が置かれ、同日付の内令員第1377号により同訓練所の職員・学生・練習生其の他の所属員をもって兼務する形となりました。

ついで、ここでは 「震洋」 の他、回天、蛟龍の水中特攻兵器要員の基礎講習が実施され、講習終了者は大神などの基地へ配員され、また沿岸防備用の水中特攻員である伏龍の要員養成も行っています。

昭和20年3月1日に 「川棚警備隊」 を 「川棚突撃隊」 に改編、講習済みの隊員を以て3個震洋隊を編成した他は、引き続き「震洋」などの要員養成についてはそれまで通り実施されています。

終戦後は、昭和22年頃まで佐世保復員局が管理・使用していましたが、その後残った建物はもちろん、桟橋などは全て撤去されて一帯はほとんどが民間に払い下げられ、広々とした農耕地が広がっていました。 そして再開発と区画整理などもあって、護岸、道路、排水路などが新たに整備し直され、また特攻殉国の碑や資料館、訓練所跡の石柱などがある一画以外は宅地化も進んできており、この一帯に臨時魚雷艇訓練所であったことを偲ばせるものはほぼ残されていません。

「川棚魚雷艇訓練所跡」 の石柱及び 「特攻殉国の碑」 は昭和42年に建立されています。

 
( 画像はネットからお借りしたものを加工してあります )

また、かつて映画用の実物大セットとして作られて撮影後に寄贈された 「震洋」 の模型は長い間自治体の倉庫に納めら、その後 「川棚町郷土資料館」 で展示されていましたが、新たに展示館が殉国の碑横に地元住民などのボランティアの努力によって作られて本年 (令和3年)5月 に完成、ここに移されて展示されています。

( 画像はネットからお借りしたものを加工してあります )

なお、現在も湾内にクレーンの礎台であったとされるものが残っていますが、この臨時魚雷艇訓練所には3トン電動起重機1基が置かれていたことは残された旧海軍史料で確認されるものの、これがどこに、どの様な状態で、どの様なものであったのかは全くの不明で、この今に残る構造物がその礎台であったのか、あるいは桟橋の残骸などであるのかなどは不詳です。



  
1952年版の米軍地図より臨時魚雷艇訓練所(赤丸)周辺の位置関係。    衛星写真より臨時魚雷艇訓練所(赤丸)周辺の位置関係
 
1945年の米軍地図より。   国土地理院発行の電子地図より。
   
昭和22年3月復員局作成の臨時魚雷艇訓練所跡の施設レイアウト。 斜線は解体・撤去予定・焼失などのものを示したもの。    
 
昭和22年4月の米軍航空写真。 上のレイアウトと同じ状況がほぼ残っています。   現在の衛星写真より。 ここが臨時魚雷艇訓練所跡であったこと偲ばせるものは何もありません。 赤枠が慰霊碑などのある区画。
(出典:Google Earth )
   
昭和37年の国土地理院の航空写真。 既に一帯は訓練所跡であることを覗わせるものは何もなく、農耕地が広がっています。    
   
昭和42年の国土地理院の航空写真。 赤枠の区画内に「特攻殉国の碑」などが出来ています。    


 
初代臨時魚雷艇訓練所長原為一大佐。(撮影日時不詳)   高松宮殿下視察。 桟橋に繫留されているのは魚雷艇、背景の建物は講堂、倉庫など。(撮影日時不詳)
 
昭和19年12月講堂前での職員記念写真。   昭和20年5月25日渡邊剛州少尉を指揮官兼第1艇隊長とする第17突撃隊第138震洋隊編成時の第11次震洋講習員中の甲飛14期生を主体とする搭乗員45名による記念写真。






最終更新 : 13/Jun/2021