|
|||||||
エニウェトック航空基地 |
エニウェトック航空基地は、1942年にマーシャル群島のエニウェトック環礁 (Eniwetok Atoll) にある Engebi 島に建設された陸上基地で、ミッドウェー海戦での敗戦に続き、米軍のガ島侵攻とマーシャル・ギルバート方面への策動に対応して研究された外郭要域防衛強化の構想に基づき、ミレ、ケゼリンと共にエニウェトックへの航空基地建設が本格決定されました。
同環礁は1920年に日本の委任統治領となってからはブラウン環礁 (Brawn Atoll) と呼ばれており、旧海軍文書でも ブラウン としているものが多くありますが、本基地については旧海軍の航空基地のリスト上は エニウェトック とされています。 なお、Eniwetok は現在は Google Earth などでは Enewetak と記されています。
同基地は、昭和17年9月には第四海軍建築部ブラウン派遣隊の手によって既に建設に着手されていたとされ、昭和18年1月には概成して第22航空戦隊の陸攻により試飛行を行ってこれを確認、更に滑走路の拡張・改善を実施中であったとされています。 概成後は中継・不時着基地として運用されたとされていますが詳細については不明であり、基地の保守・管理も含めて詳細は不詳です。
昭和18年10月14日にイ号作戦に伴う事前配備として七五五空の陸攻x9機が一時進出したことが記録されています。
なお、戦史叢書ではブラウン環礁には滑走路が2本あったとされていますが、本エニウェトック基地は米軍史料による地図及び写真では1本のみですので、もう1本の所在は不明です。 もしかすると1944年7月の米軍史料にあるエニウェトック島の捕獲地図にそれらしいものが描かれていますが、説明文がありませんので確証はありません。
また、米側の記録によると同環礁のペリー島 (Perry Island) に水上基地が置かれ、滑りなどの施設があったとされていますが、これについても旧海軍側の史料はなく、詳細は不明です。
エニウェトック環礁には、昭和19年1月になって海上機動旅団第一旅団の主力部隊約2800名が進駐、海軍の第61警備隊ブラウン派遣隊、九五二空の基地員を初めとする軍人約200名、軍属等約600名と合わせ、第一旅団長の指揮下でブラウン防備部隊が編成されましたが、陣地構築などの準備が整わないうちに1月31日には米艦載機による空襲が始まり、2月19日には前日の艦砲射撃に続いて上陸作戦が開始され23日には日本側の組織的な戦闘は終結しました。
戦史叢書では、空襲が始まった後の2月5~7日に八〇二空及び八〇一空の大艇計7機をもって、七五二空及び七五五空の搭乗員等合計181名を収容したとされており、また1944年7月の米軍史料では、これらの大艇による収容はペリー島の水上基地からとされています。
エニウェトック環礁の米軍占領後に本基地は復旧の上一時使用されましたが、同環礁最大のエニウェトック島 (ブラウン島) に航空基地が新設されて以降は放置状態となり、現在ではジャングル内に旧滑走路の跡が僅かに残るだけとなっています。
なお、エニウェトック環礁は、ご承知のとおり戦後全住民を避難させた上で1948年から1962年までの間数々の原爆・水爆実験が行われたところで、1977年から汚染土の除去作業が開始されて1980年には安全宣言が出されましたが、いまだに放射能レベルは高く、帰還した元住民は環礁の南側に居住しています。
1944年2月米軍空襲下の Engebi 島 | 1944年2月米軍侵攻下の Engebi 島 |
最終更新 : 17/Mar/2019