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中部地方所在の旧陸海軍航空基地 |
黄色 は旧海軍の陸上機、緑色 は水上機、赤色 は水陸両用、白色 は旧陸軍の飛行場を示します。 ( 元画像 : Google Earth より ) |
( ↑ 航空基地名にカーソルを当てると関連する図・写真のデータ・ウィンドがポップアップします )
中部地方所在の旧陸海軍の航空基地は次のとおりです。
旧海軍の航空基地は次の10個所とされています。 詳細について各航空基地の当該頁を作成する予定にしています。
七 尾 | : | |
小 松 | : | |
名古屋 | : | |
岡 崎 | : | |
明 治 | : | |
第二河和 | : | |
豊 橋 | : | |
第一大井 | : | |
第二大井 | : | |
藤 枝 | : |
この他に 『日本海軍航空史』 では終戦時に浜名湖及び清水 (三保) に水上機基地があったとされていますが、これらは民間の水上機飛行場であり、かつ旧海軍が使用したとする記録はありませんので省略しています。 また清水 (三保) に海軍飛行予科練習生教育の 清水航空基地 がありましたが、グライダー以外の飛行場設備がありませんので省いております。
また同じく、第一河和、及び岡崎のうちの第一及び第二の飛行場施設を有しない航空基地についても本一覧では省略しております。
なお、民間空港である 名古屋飛行場 (名古屋国際空港) には隣接する愛知航空機で製造した水上機のための航空基地施設が併設されていましたが、旧海軍がここを水上機基地として使用したかどうかは不詳です。
旧陸軍の航空基地は次の19個所とされています。
新 潟 | : | 昭和4年に万代島 (現新潟市中央区万代島) に民間の万代飛行場が開設され、翌5年にこれを北蒲原郡松ヶ浜村に移転して市営の新潟飛行場となりました。 この飛行場を昭和16年に陸軍が徴用したものですが、徴用後からの運用状況などは不詳です。 終戦後米軍が接収し滑走路新設 (現在のA滑走路) などの拡張が行われましたが、昭和32年に解除・返還となり民間の新潟空港となりました。 昭和38年に1200mのB滑走路が新設され、昭和48年には国際空港となり、以後近代化改修が行われつつ、現在では2500mの滑走路を有する新潟の表玄関たる空港となっています。 |
小千谷 | : | 明治期~大正期に旧陸軍の工兵大隊の駐屯地となっていた跡地に昭和7年になって地元民などの手によって飛行場が整備されたのを嚆矢とし、昭和7年に民間の 中越飛行場 となったものを昭和16年になって旧陸軍が徴用したものですが、その後の運用状況などは不詳です。 昭和22年の米軍撮影写真を見ると、当初のものより南東方向に拡張されたようですが、その時期は残念ながら判りません。 戦後は一時民間飛行場再建案も出たものの結局のところ農耕地となり、現在でも田園風景が広がっています。 |
富 山 | : | 富山県婦負郡倉垣村 (現富山市布目)に置かれた飛行場で、所在地名から 倉垣飛行場 とも呼ばれました。 元々は昭和8年に県営の飛行場として建設され、その後逓信省所管となりましたが、更に昭和17年に旧陸軍の所管となったとされています。 大戦中の運用状況などは不詳です。 また、当初は当時一般的だった変形のL字型のものでしたが、その後昭和13年、同15年、同18年など数次にわたり拡張工事され、終戦までには原型をとどめないほどのものになりました。 戦後は民間に払い下げられて開拓地となり一帯は田園地帯となりましたが、現在では一部は住宅地及び学校になっています。 |
金 沢 | : | 元々は昭和13年に石川県河北郡川北村 (現金沢市東蚊爪町) に建設された逓信省所管の飛行場ですが、民間航空ではほとんど利用されなかったとされています。 陸軍への移管時期、拡張時期、及び大戦中の運用状況などについては不詳です。 終戦後はそのまま民間に払い下げられ、現在では周囲の干拓などと共に全くの工場地帯の中となっており、衛星写真で見る限りでは飛行場跡地を伺わせるものは何もないようです。 |
三 国 | : | 昭和18年に福井県坂井郡加戸村 (現坂井市三国町) 池上の地に用地を買収して建設が行われたものですが、終戦までに完成したのかどうかも不詳です。 戦後は国策により食料増産のための開拓地となり、現在でもほとんどが農耕地として残っており田園風景が広がっています。 |
長 野 | : | 元々は昭和14年に長野県長野市川合新田に市営の飛行場として開設されたもので、その後逓信省所管となったようですが、旧陸軍への移管時期及び大戦中の運用状況などは不詳です。 元々は当時一般的だった変形のL字型のものですが、昭和19年に北東側に拡張されました。 戦後は昭和22年の接収解除により長野市に返還され、翌年には滑走路などを残して民間に売却されましたが、同28年に再度民間飛行場となり、昭和58年に市営団地が建設されるまで続いたとされています。 ただし正式閉鎖は平成2年です。 現在では一帯は全くの市街地となっていますが、区画割りに元々の飛行場跡がほぼそのまま残されています。 |
上 田 | : | 昭和6年に長野県上田市中之条の地を当初農耕地用として開墾を始めたものの農地不適であることから改めて飛行場用地としたもので、同8年に上田市から旧陸軍に献納されました。 昭和12年に熊谷陸軍飛行学校上田分教場の設置に合わせて拡張工事がなされ、訓練飛行場として運用されました。 終戦後は米軍に接収されたものの、昭和21年には土地建物の一部を利用して高等女学校 (現上田千曲高等学校) が置かれ、その他は農耕地や宅地に転用されましたが、現在ではほぼ市街地となっています。 |
松 本 | : | 昭和18年に長野県松本市神林村 (現松本市今井) に建設が始められて昭和20年春に概成しましたが、実際の運用実績はないままに終戦を迎えたとされています。 終戦後は米軍に接収されることもなくそのまま民間に払い下げられましたが、昭和40年に飛行場跡の南側隣接地に長野県所管の第三種空港である松本空港(現信州まつもと空港)が建設され、その後滑走路の延長工事などにより元の飛行場跡地もその一部となっています。 なお、現在でも区画割りに南側を除き元の飛行場跡がほぼそのまま残されています。 |
伊 那 | : | 昭和18年に長野県伊那郡美鈴村(現伊那市上の原)の伊那部の地に建設が始められましたが、飛行場としての概成時期は不詳です。 翌19年には熊谷陸軍飛行学校伊那分教場が置かれ訓練基地として運用されたほか、20年2月には各務原航空工廠の戦闘機製造工場がここに疎開したとされています。 戦後は米軍に接収されることなくそのまま民間に払い下げられ農耕地となりましたが、現在では宅地化も進んできているようです。 |
甲 府 | : | 昭和11年に山梨県甲府市玉幡村の競馬場南側隣接地に民間 (在郷軍人) の飛行場として建設されたものですが、当初から旧陸軍との共有として運用されたこともあり、順次競馬場跡地を含めて拡張がなされました。 所在地名から通称 玉幡飛行場、あるいは単に元の民間飛行場名である 山梨飛行場 とも呼ばれています。 昭和15年に熊谷陸軍飛行学校甲府分教場 (同年岐阜陸軍飛行学校甲府分教場に改称) が置かれ、民間の山梨航空技術学校 (17年に山梨航空技術学校と改称) による航空予備員養成と併せ、訓練基地として運用されました。 終戦後は米軍に接収されることもなく民間に払い下げられ、現在では工場地帯となっています。 |
各務原 | : | 旧陸軍の演習場であったものを大正4年に飛行場として転用することとされ、同6年に開設されたものです。 ここには東西横並びに 飛行第1連隊飛行場、陸軍航空本部補給部各務ヶ原支部飛行場及び飛行第2連隊飛行場の3つが置かれ、このうち飛1及び飛2は実用基地として運用されましたが、支那事変勃発以降実戦部隊の出征に伴って熊谷陸軍飛行学校岐阜分教場などが置かれて訓練基地となりました。 終戦後は飛2及び補支飛行場地区は米軍に接収されて Camp Gifu となりましたが、昭和25年の警察予備隊 (29年に航空自衛隊) の補給部隊が置かれて共同使用となり、同32年の接収解除・返還と同時に航空自衛隊の岐阜基地となって現在に至っています。 また飛1飛行場地区は昭和21年に民間に払い下げられて開墾地となり、現在では一帯は工場及び住宅地となっています。 |
小 牧 | : | 昭和17年に愛知県西春日井郡豊山村岡山(現豊山町豊場)の地に建設が始められたもので、昭和19年に概成したとされていますが、終戦までの運用状況などについては不詳です。 戦後は米軍が接収したものの、昭和27年に民間との共有使用となり、同33年には航空自衛隊第3航空団も移駐しました。 この33年には滑走路の延長・拡張工事などが行われ、また接収解除・返還となっています。 35年には第二種空港の 名古屋空港 となり、41年からは国際空港となりましたが、平成17年の中部国際空港開設に伴い愛知県所管の 名古屋飛行場 となり現在に至っています。 |
本字ヶ原 | : | 元々は愛知県東春日井郡旭町本字ヶ原(現尾張旭市北本字ヶ原町)に置かれた旧陸軍の演習場で、他の多くの練兵場や演習場と同じく戦前から不時着陸場として利用されてきたところです。 この演習場を大戦期に本格的な飛行場としたものですが、その時期については不詳なものの、昭和20年(写真は19年撮影)の米軍資料では 並行する2本目の滑走路 を始めとして元の不時着陸場からは大幅に整備・拡張されております。 (ポップアップ・データの赤線は元の不時着陸場当時) 終戦までの運用状況などについては不詳ですが、戦後はそのまま民間に払い下げられ、元々演習場内を幹線道路が走っていたこともあって、現在ではこの街道沿いを中心とした全くの市街地となっており、衛星写真を見る限りでは飛行場跡を伺わせるものは何もありません。 |
清 洲 | : | 昭和19年になって愛知県清洲市 (現清洲市)に建設されたもので、同年10月に概成したとされていますが、終戦までの運用状況などについては不詳です。 戦後はそのまま民間に払い下げられて農耕地となりましたが、衛星写真を見る限りでは現在でも元飛行場跡はそのまま区画割りとして残っており、周辺は住宅地になったものの、跡地内は学校や公共施設が出来、高速道路が走った以外は見事にまだほとんどそのままとなっているようです。 |
名古屋(民) | : | 元々は大正9年に当該飛行場の北東隣接する名古屋港第10号埋立地に 名古屋国際空港 が開設されたことを嚆矢とし、ここを仮飛行場として第11号埋立地に本格的な民間空港として建設されたのが本飛行場です。 しかしながら、第11号埋立地の埋め立て完了が昭和14年、飛行場として開設されたのは昭和16年であったため民間空港として使用されることないまま旧陸軍の徴用となりました。 大戦中は常駐部隊などは置かれず、主として愛知、三菱などの新造機の試験や空輸などに使用されたようです。 戦後は米軍により短期間接収された後に民間に払い下げられ、現在では工業地帯の一部となっています。 なお、隣接する埋立地にある愛知時計電気の航空機部門(昭和18年に愛知航空機となる)の水上機用の施設が本飛行場の北東一角に置かれていましたが、大戦中にここを旧海軍の水上機基地として使用したかどうかは不詳です。 |
老 津 | : | 愛知県渥美郡老津村大清水(現豊橋市南大清水町)の地に戦前から置かれた飛行場ですが、開設時期などについては不詳です。 また、大戦中の運用状況などについても知られておりません。 終戦後はそのまま民間に払い下げられて農耕地となったようですが、衛星写真を見る限りでは現在では宅地化も進んできているようです。 |
三方原 | : | 浜松飛行場の北東側に隣接する静岡県浜名郡三方原(現浜松市北区豊岡町)に置かれた飛行場ですが、設置の時期などについては不詳です。 また元々が旧陸軍の演習場であり、浜松基地が出来てからはその訓練用の射爆場としても使用されており、飛行場としての敷地範囲、特に北側についてはよく判りません。 また、この北側地区には多数のトーチカが作られましたが、これが射爆標的としてのものなのか、あるいは米軍の上陸時に備えての実戦用のものなのかも不明です。 大戦中には第102教育飛行団隷下の第7飛行教育隊が置かれたともされていますが、この地には航空関連を含む多数の部隊が雑居していたとされ、飛行場としての運用状況などの実態はよく判りません。 戦後は民間に払い下げられ農耕地となりましたが、現在でもその多くが残っています。 |
浜 松 | : | 静岡県浜名郡吉野村(現浜松市中区)に昭和元年の開設と同時に飛行第7連隊が置かれましたが、昭和8年には浜松陸軍飛行学校となり、更に昭和19年には浜松飛行教導団(翌20年には教導飛行師団第4連隊)に改編され、終戦まで主として爆撃機などの訓練基地として運用されました。 大戦後は米軍に接収されて不時着陸場として使用されましたが、昭和27年に接収解除・返還されて保安隊(現陸上自衛隊)航空学校が置かれ、同29年には航空自衛隊の操縦学校などが同居する形になり、翌30年以降は航空自衛隊浜松基地となって現在に至っています。 滑走路の延長を始め滑走路地区及び管理地区などは改修・近代化されたものの、それ以外の元の飛行場用地は民間に払い下げられて住宅街などの市街地になっています。 |
天 竜 | : | 昭和17年に静岡県磐田郡袖浦村(現磐田市飛平松)に開設されたもので、明野陸軍飛行学校天竜分教場が置かれ訓練基地として使用されました。 終戦後はそのまま民間に払い下げられて農耕地となりましたが、現在では南側約半分は工場地帯となっています。 |
なおこの他に、名古屋城北 (名古屋)、野村 (金沢) 、三島 (静岡) 、敦賀(福井)などの練兵場や高師ヶ原 (豊橋)、板妻 (静岡)、立野原(富山) などの演習場が不時着陸場として使用された他、三保 (静岡)、伊良湖 (渥美半島)、上野平(高山) などの不時着陸場がありましたが、これらについては全て省略します。
最終更新 : 28/Oct/2018